17.パスタと妙案



 買い物から帰った母さんが昼食の支度をし、エドワードがそれを手伝う。夏休みの間見慣れた光景を、俺は仏頂面で眺めていた。
「なんて顔してるの、咲良。……それに、どうしたのその擦り傷」
 そんな俺に気付いて、母さんがそんな声を上げる。
 足を踏み外した俺は、そのまま勢い良く顔面を梯子で擦りながら落下したわけで。けどそうなるまでの顛末を、親に説明できるわけもない。
「聖域に立ち入ろうとしたら神の裁きを食らった感じ」
「……マンガの読み過ぎなんじゃない、あなた」
 婉曲に告げたらお小言を食らってしまったが、そんなファンタジーなマンガは読んでいない。
 どうして俺がエドワードに何かしようとすると、ことごとく邪魔が入るんだろう。本当に、神かなんかが見ていて意図的にやっているとしか思えない。と考えて、ふと俺はそれが正しいんじゃないかと思ってしまった。ただし、意図的にやってるのは神じゃない。
「じゃなければあれだ。超絶シスコン君が異世界から俺を呪っているに違いない」
「やっぱりマンガの読み過ぎじゃないの。それか、テレビアニメの見過ぎ?」
 俺はオタクですか。というか母さん、エドワードが異世界から来たっていうの忘れてないか?
 ともあれ俺の呟きを聞いて、エドワードが俺を振り向きくすっと笑った。彼女には通じたらしい。
 ――エドワードには弟がいる。もちろん向こうの世界の住人で、今はもう会うことはできないが。
 こいつが超が数千、いや数万回はつくシスコンで、姉さん大好き、姉さん命、口を開けば姉さん姉さんという、とにかく極度のシスコンだった。エドワードに拾われた俺を目の敵にしていて、隙あらば刃物を持って襲いかかってきたっけ。絶対にあいつとは仲良くなれないと思っていたな。
 もう会うことのない友人を思いだしたら、少ししんみりとした気分になった。俺がこうだから、エドワードにしてみれば尚のこと、そしてあいつ自身はそれよりさらに。会えないことが辛いだろう。
「エドちゃん、調子悪いんじゃないの? 無理しなくていいのよ?」
 ぼんやりしていた俺は、心配そうな母さんの声で我に返った。エドワードは首を横に振ったが、俺は座っていた椅子を下げて立ち上がった。
「俺が手伝うから。エドワードは休んでなよ」
「本当に大丈夫だ。……じっとしているのは性に合わなくてな」
 トマトを裏ごししながら、エドワードがそう言って微笑む。その横では、母さんが大きな鍋を火にかけて、スパゲッティの袋を持っている。今日の昼食はミートソースパスタだろうか。
 エドワードに断られてしまったので、俺は所在なく、また椅子に戻った。
 ……じっとしているより、動いている方が、というのは俺にもわかる。考え込むとロクな方に思考がいかない俺にとっては尚のことだ。けれど、エドワードは学校にも行けないし、友達もいないわけだ。いつも家事を手伝っていたり、母さんに料理やら編み物やら教わっていたりと、エドワードが暇そうにしているのは見たことないけど、いつも家の中にいたらそりゃ息も詰まってくるだろう。
 そんな風に考えて、俺はふといいことを思いついた。
「俺さあ、昼食ったら道場行こうと思うんだけど。エドワードも一緒に行かない?」
 俺の提案に、エドワードと母さん、二人が同時に俺の方を振り返る。
「ドウジョウ?」
「前に言ったことなかったっけ、合気道のこと。それを教えてくれるとこだよ。俺のじいちゃんがやってんだ。裏には剣道場もあるし、見てるだけでも楽しいと思うんだけど」
 軍人の性質か、エドワードはよく俺の素振りを興味深そうに見ていた。型や技について尋ねられたこともある。俺は昔から武道をやっているので、他武道を見たり習ったりするのは楽しい。エドワードが合気道に興味を持ったのも、それと似たところがあると思う。このところ元気がない理由はわからないけど、少なくとも気は紛れるだろう。気に入ったら入門してもいい。その月謝くらいなら、俺の小遣いから払える。
 と、俺はかなりいいことを思いついて上機嫌だったけれど、それを聞いた母さんは眉を潜めた。
「咲良、エドちゃんは調子が悪いんじゃない? 何も今日いかなくても……」
「いえ、行ってみたいです。本当に、体調が悪いわけじゃないですから」
 裏ごしを終えて、フライパンを火にかけながらエドワードが母さんに答える。
「連れていってくれ、咲良。ずっと君の戦い方には興味があったんだ」
 そう言って笑うエドワードには、朝の塞ぎこんだような様子はもうなかった。