16.不可侵の聖域



 俺は姫野咲良。ラブリーな名前と異世界トリップ経験があるということ以外は、極めて普通の男子高校生である。
 そして同居人のエドワードは、男前な名前と風貌、そして異世界の住人だったということ以外は、割と普通の女の子だ。
 ……最近、普通の定義ってなんなんだろうと真剣に考える。

 エドワードがこっちの世界に来てから、半年が過ぎようとしている。
 季節は夏に差し掛かり、夏休みのお蔭で俺はまた、一日のほとんどをエドワードと一緒に過ごせた。しかし何か進展があったかと言われると何もない。
 相変わらず俺は彼女にからかわれたり、弄られたりしながら、出会った頃とさほど変わりない毎日を暮らしている。あの告白はいったいなんだったのか。異世界に行ってたことより、あの瞬間の方が夢だったような気がする今日この頃。
 だけど、エドワードがこちらに来たばかりの頃の、ある日突然いなくなってしまうのではと、そんな不安はだいぶ薄くなっていた。
 それから、俺の我儘で彼女に無理を強いているのではないかと、そんな自責の念もまた、同じように薄くなっていた。
 というより、俺がそれを気にして塞ぎこめば、彼女を余計な心配をかけるだけだということに気付いた。
 彼女を幸せにしなければいけないと、俺は少し気負い過ぎていた。平和な世界で生きてきた、たかだか十七歳のガキが、そんな大層な目標を持ったってできるわけがないというのに。
 今俺ができるのは、焦らないでゆっくりと、エドワードと一緒に歩いていくことだけだ。
 情けない結論だけど、ただ空回りしていた頃よりは、少し成長した気がする。
 なによりも、そうして傍にいて、エドワードが隣で笑ってくれることが俺を支えてくれていた。

 でも夏休みも終盤に差し掛かった八月の終わり。
 もうすぐ学校も始まるというのに、ここに来て、エドワードは思い詰めたような顔をすることが増えていた。

 外からはいい風が入るけれど、それだけで凌げるほど残暑は甘くない。
 Tシャツ一枚だけだけど、じっとしていても次第に額が汗ばんでくる。みんみんと絶え間ない蝉の声が、ますます暑さに拍車をかける。 でも、エドワードが動かないので俺も動けないままだった――そんな状況。
 九時頃目覚めた俺がリビングに降りてもエドワードの姿はなく、調子が悪いのかもしれないからそっとしておこうとの母さんの提案に俺も同意したのが一時間ほど前。心配して様子を見に行ったら、彼女はこちらに心配をかけないよう気丈に振舞うかもしれない。半年一緒に過ごして、母さんもエドワードのそういう性格を見抜いているようだった。
 進学せず働いている姉ちゃんは、既に仕事に出かけている。デパートでアパレル関係の仕事をしているので、夏休みも祝日も土日も関係なしだ。十時を過ぎると、母さんも買い物に出かけた。
 うなされているエドワードに気付いたのは、その後だ。その声があまりに尋常でなかったので、呼びかけたけれど反応がない。いてもたってもいられずに、部屋に入って揺り起したのがついさっき。
 幸いエドワードはすぐに目覚めたけれど、様子が少しおかしかった。まるで、何かに脅えているような――そんな感じさえする。
 戦場で果敢に戦い、剣をつきつけられようが、どんな深手を負おうが、いつも毅然としていた彼女のそんな様子は、初めて目にするものだった。
「……すみれさんや、楓さんは?」
 それでも、しばらくすると彼女も落ちつきを取り戻した。汗を拭いながら、家族の所在を問いかける彼女に答える。
「姉ちゃんは仕事。母さんは買い物に行ってるど、もうすぐ帰ってくると思う」
 彼女はそうか、と小さく答えると、また伏し目がちに俯いて、か細い声を返してきた。
「なら、それまででいい……傍にいてくれないか」
「う、うん……、いいけど……」
 いつになく思い詰めた様に、心配がつのる。その一方、俺は動く気配のないエドワードに少し困っていた。
 エドワードの部屋は元々物置代わりに使っていた小さな部屋で、スペースの都合上、彼女のベッドは机と一体になっているタイプだ。だから、俺は今梯子の上にいる。
 傍にいて欲しいと言われても、エドワードが動かなければ、俺はこのまま梯子をつかんでいるか、もしくはベッドに上がるしか道がない。前者はまだしも、後者は気が引ける。
 母さんだってもうすぐ帰ってくることだし、そうでなくともこの状況で妙な気は起こさない。……と思う。でも、女の子のベッドは男の聖域だ。即ち、うかつに侵入してはいけない。
 そんなわけで動けずにいる俺を見て、エドワードは少し不思議そうな顔をしてから、自嘲気味に笑った。
「……すまない。君と出会ってから、私はどうも君に依存しがちだ。気をつける」
「いっ、いや別に! 俺は……頼って貰えた方が嬉しいけど……」
 依存された覚えは悲しいくらいにないんだけど、もしエドワードにとってそういう存在になれているなら、俺としては嬉しい。素直な気持ちを告げると彼女の笑みから自嘲的なものは消える。
 ほっとしたように、嬉しそうに笑う彼女を見て、俺は無意識に梯子を一段昇ってしまった。……やばい。
 別に妙な気は起こしてない。ただ、元気のない彼女を、抱きしめて力付けたいと思うだけ。けどそれをやってしまって、果たしてそこで止まれるのか。そんな自信は微塵もないくせに、踏み出した足を止められない――が。

「ただいまー」

 母さんの声と玄関の開く音に、俺は思い切り次の一歩を踏み外して転落した。