18.母の温もり
昼食のパスタを食い終えると、俺は食休みもほどほどに、部屋に戻って年季の入った道着を引っ張り出した。
俺のじいちゃんは、一緒には住んでいないが健在で、合気道の師範をしている。それもあって俺は物心つく前から合気道をしていた。他にも部活で剣道やら柔道やらやったけど、やっぱり俺は合気道が一番好きだ。
エドワードが来てからは道場通いもすっかりご無沙汰になっていけど、今でも合気道は好きだから道着を見るだけでテンションが上がる。部屋を出ると丁度エドワードも着替えて部屋から出てきたところだった。
「……暑くない?」
黒のパーカーは長袖、インナーは首元まで覆うタイプで、思わずそんな言葉が出る。けれどエドワードは首を横に振った。
「いや、まあ。でも大丈夫だ」
彼女が露出を極端に嫌うのは今に始まったことじゃないが、ここは年中寒いヴァルグランドとは違う。暑さにも慣れていないだろうに、俺でもそんな格好をしていたら倒れそうだ。
「気持ちは分かるけど……道場かなり暑いよ」
「なんとかなる。それに、下の服は袖がついていないからそう厚着ではない」
インナーを摘んでエドワードはそう言うが、色が全部黒いせいか余計暑そうに見える。でも三十度越えの真夏日ですら、いくら薄着を勧めてもエドワードは頑として譲らなかった。多分、今も言ったって無駄だろう。そう思って俺は諦めて玄関に出たが、リビングから出てきた母さんは、やっぱりエドワードの格好を見咎めた。
「エドちゃん、さすがにその格好で外に出るのは暑いわよ」
まあ、そりゃそうだろうな。一人だけ季節が違う装いだし。いくら下がノースリーブと言ってもパーカーが厚手だから、今の季節この格好で外出したらかなり目立つだろう。それでなくても、背が高くて美形というだけで、こんな田舎じゃ人目を引きそうなのに。
さすがに母さん相手ではあまり強くも出られないのだろう。黙ったままのエドワードに、母さんはパタパタとスリッパの音を立てて近づき、止める間もなく彼女が着ていたパーカーのジッパーを下ろした。
「あ……」
「せめてこれは脱いでいった方が――」
お節介な母さんがエドワードのパーカーをはぎとる。けれど途中で言葉を止めたのは――剥き出しになったエドワードの、肩から二の腕に走る大きな裂傷が目に入ったからだろう。
肉を斬らせて骨を断つというのか、やっぱり咄嗟に腕で庇うことが多いんだろう。それ一つだけでなく、よく見れば両腕とも傷だらけだった。
それを見て、彼女が俺の刀を左腕で止めたことがあったのを思い出した。いくら峰だったと言っても、振り抜こうとした刀を腕で止めたら軽傷じゃ済まなかった筈だ。今更そんなことに気付いて唇をかみしめていると、エドワードと目が合った。けれどそんな気まずさで、俺は何も言えずに目を逸らししまった。
「……わたしの夏用のカーディガンを貸してあげるから、少し待っていて」
エドワードの気持ちを察したのだろう、母さんはそう言うとこちらに背を向け、階段を上っていく。
残された俺が気まずい思いのまま顔を上げると、エドワードは焦ったように、ずり落ちたパーカーを羽織りなおした。
「戦のないこの世界では、私の傷は余計に気味が悪いだろう」
うなだれたエドワードがそう呟く。
確かに、俺が気にしなくても、あれを剥き出しにしていれば厚着している以上に目を引いてしまうだろう。それが好奇であれ哀れみであれ、彼女にとっては気持ちのいいものじゃないのは確かだ。……でも。
「母さんも俺も、気味が悪いと思ってるわけじゃないよ」
母さんが自分の上着を貸すと言ったのは、そういう視線を向けられてエドワードが傷つかない為に、だと思う。暗い顔のエドワードを見て、俺は両手を握りしめた。
「俺が強ければ、つかなくていい傷もあった。ごめん。守ってあげられなくて」
「咲良に会った頃には、もう傷だらけだった」
力無く微笑みながら、エドワードが俺の謝罪をあっさりと切る。笑っていたけど、声はとても悲しそうだった。
「何もかも今更だ。こんなもの気にする自分が滑稽だと思う……」
そんなエドワードに、俺はなんて言えばいいのかわからなくて。
どうして俺はこういうときに、気が利いたことが言えないんだろう。もっと俺がちゃんと力づけてあげられるのなら、エドワードも強がらなくてすむだろうに。
でも俺の頭に浮かぶのは、そんなことないとか、元気出してとか、ありきたりの気休めだけ。そんなことを言えばエドワードは逆に無理をしてしまいそうだ。
結局何も言えないまま、訪れた沈黙を戻ってくる母さんの足音が破った。
「これ、日焼け防止用のものだけど。肌は出ないしそっちよりは涼しいわ。これなら、外で着ていても変じゃないし」
薄手のカーディガンを母さんから渡され、エドワードは礼を述べると再びパーカーを脱いだ。着替えるというほどのものでもないが、普段ああまで頑なに肌を隠されると、腕が見えるだけでも気恥かしくて目が泳いでしまう俺は、とても修行が足りない。
「……軽くて、涼しい」
エドワードの声で顔を上げると、確かにさっきのパーカーほどは浮いてない。この頃は、日焼けを嫌って夏でも肌を出さない女の子もとても多いから、これなら不自然ではないだろう。
「ありがとうございます、すみれさ――」
エドワードが母さんに礼を述べる声が、途中で途切れた。
見ると、母さんが、急にエドワードをぎゅっと抱きしめていた。
「女の子だもの。辛いよね。気付いてあげられなくてごめんね。でも、もう隠したり、強がったりしては駄目。それって自分に嘘をつくってことよ。そういうことも必要かもしれないけど、いつもそれじゃあなたの心が可哀想だわ」
母さんの声は涙が混じっていて、エドワードの肩に、今袖を通したばかりのカーディガンに、母さんがぽろぽろ涙をこぼす。
「心を休ませてあげる場所を作らなきゃ駄目よ。それをここにしてくれたら嬉しいな」
……エドワードの肩が、震えた。
エドワードの母さんは、小さいときに亡くなったと言っていた。多分、それから彼女は長姉として、姉だけでなく母でもあろうとしたんだろう。今まで、誰かに甘えたことなんてきっとなかったんじゃないだろうか。
エドワードが両手を母さんの首に回して、聞こえてきた言葉は多分日本語じゃない方だった。だけど、俺にははっきり聞こえたんだ。
ははうえ、って、彼女が呟いたのが。