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 冷えた空気に目を覚ますと、そこは見慣れた自室だった。
 いや、自室と言うとやや語弊がある。自分の部屋には違いないが、自分が暮らしていた場所ではない。この戦で長く駐留している砦だ。
 元より、自分の本当の住処や部屋などは、名を変えたときからそれと同時に失ったにも等しい。戦から戦へ。長く身を置く場所が自分の家だとするなら、私の家は戦場だった。
 偽りでも王太子という身分を持つ以上、決して大軍を有するに広いとはいえぬ砦でもいつでも私は一人部屋を持っていた。そして戦況が落ちついていればそこで過ごした。寝起きするのはいつも一人。生活するのに人が傍にいては不都合な身であるから、それは好都合であると同時に常に孤独との戦いだった。
 大抵のことは、長くすれば慣れる。しかしこればかりは慣れなかった。
 一人で過ごすには広すぎる部屋。おはようと声をかけてくれる人のいない場所。
 それでも、孤独という言葉を思い出したのは久方ぶりの気がする。――何か、大事なものが抜け落ちている気がした。
 まるで夢を見ているかのようにはっきりしない意識のまま、ベッドを降りて扉を開く。
 それと同時に、喧騒が私を包んだ。
 そこは既に砦ではなく、混乱と断末魔に彩られた戦場。私の住処とも言える場所。むせかえるような血の匂いと焦げた大地。
 その中を、私は黒い軍服を纏い、黒馬に跨り、剣を振りかざして駆け抜けていた。
 何のことはない、私にとってそれは日常だ。剣を振り、人を屠り、それを踏みつけて、ひたすらに勝利という形のないもののために血を流す。私という存在は、その為だけのものだった。

 ――違う。

 けれど、ここは、何かが違う。
 何故そう思うのかはわからない。けれど、誰かが違うと叫ぶ。

「――姉さん!」

 その声に、金縛りにでもあったように体が動かなくなった。
 懐かしい声に、凍った涙がこぼれそうになる。戦うことをやめた私に襲いかかる数々の刃、だけどそれは私に届くことはなく。
 それを止めたのは、片刃の剣だった。
 動けない私を置き去りに、その風変わりな剣を振るって戦場を駆けていくのは、白い髪と赤い瞳の――

「駄目だ」

 それは、私の声だったのだろうか。それとも、彼か、弟か。
 溢れる光の洪水に、その姿が飲み込まれ、悲鳴と涙がこぼれる。

「駄目だ。こちらにきては――帰ってきては駄目だ、姉さん!」


 ぱん、と何かが弾けるような音と共に、光が全てを塗りつぶした。

「エドワード!」

 呼ぶ声に目を開く。溢れるような光は陽光で、開け放しの窓から入る風に薄桃色のカーテンが踊っている。
 そして、私とその窓の間に、心配そうに覗く漆黒の瞳がある。
「咲、良……?」
「勝手に入ってごめん。すっごいうなされてるの、外まで聞こえたから……」
 起き上がると、カーテンと同じ薄桃のシーツを掴む手に雫が弾けた。汗だくなことに気付いて、手の甲で額を拭う。
「大丈夫? 今、タオル持ってくる――うわ!」
 そう言って彼が去ろうとするので、咄嗟に頭に腕を回して止めていた。急に抱きついたせいだろう、焦ったような声を上げて咲良が固まる。そんな、相変わらずの可愛い反応を見ていると、波だった心がすっかり落ちついていった。
 だが汗だくだったのを思い出して、すぐ手を離す。
「すまない。汚れるな」
「そ、そんなのはいいんだけど――どうしたの。体調でも悪いんじゃ……」
「違う。……夢を見ただけだ」
 心配をかけぬ為に正直なところを話したが、どんな、と聞かれると言葉を濁すしかなかった。故郷や弟のと答えれば、きっと気に病むだろうから。
 何故突然そんな夢を見たのかは、自分でもよくわからない。ただ帰りたいというのが理由ではない。
 むしろ、あまり帰りたいとは思わなかった。夢に見てなおのこと思う。今もまだあの場所で戦っている弟には合わせる顔がないけれども、それが偽らざる気持ちだ。
「うーん……、よくわからないけど、そんなカッコで布団被って寝てたら、そりゃ汗だくにもなるしうなされもするよ」
 そう言う咲良は半袖のシャツ一枚で実に涼しそうだが、私はと言えば以前から使っている長袖の寝間着だ。生地もそこそこに厚い。
 寝苦しいのはそれが原因だと分かってはいるが、薄着をするには抵抗がある。それを察したのだろう、咲良はまた、梯子を降りようとした。部屋の広さがそうない為か、このベッドは机と一体型になっていて、ベッドに入るには梯子を登る必要がある。
「俺、出てるし、上着脱いだら……」
「いい。構わないからもう少し居てくれ。……寝覚めが悪いんだ」
 呟くと、咲良は足を止めてくれた。それを見てほっとする。
 こちらに来て、百日はゆうに過ぎたろう。見知らぬもので溢れ、言葉も通じぬことに戸惑いを覚えることはあるが、ここには戦がない。目の前で理不尽に命が奪われることもない。疫病で苦しみもがくことも、飢えも乾きもない。
 愛するひとが、それらに苦しめられることもなく、ずっと傍にいてくれる。
 気が遠くなるほどの幸せ。それが時折、怖くなる。  

 咲良に出会った日から、私は随分弱くなったと思う。
 今を失ったらとそう考えるだけで、怖くて怖くて、堪らなくなるくらいに。