11.ふたりきりの日



 どこか遠くで呼ばれている気がする。
 上も下もない曖昧な空間。それは覚えのある感覚だった。
 耳で聞こえるのではなく、頭に直接響くような、不思議な声。
 咲良と、俺を呼ぶ声。
 それはずっと遠くから……少しずつ、近くなっていく。
 この声を、俺は知っている。この声は――

「咲良!!」

 ――姉ちゃんだ。

 いきなり間近で爆発する怒号に、俺は布団を飛ばして跳ね起きた。
「なッ――何? 学校なら、まだ春休みで……」
「んなことは分かってるよッ! 電話、あんたに」
「あぁ……」
 寝ぼけた頭で電話を受け取ろうとして、慌てて俺はぶるぶると首を振った。今覚醒した。そうだ、携帯の電源を切ってたんだった。
 電話を持った姉ちゃんから後ずさりながら、俺は両手をクロスさせて×印を作る。居留守のサインだ。姉ちゃんは半眼で俺を見ながら、再び自分の耳に受話器を当てた。
「咲良は、居留守です」
「ばッ、馬鹿――ぐはッ」
 飛んできた受話器が直撃し、俺は痛む頭をさすりながら仕方なく投げられた受話器を拾った。誰からと姉ちゃんは言っていなかったが、十中八九部活の奴だ。
「……うん。だから風邪なんだって、春休みが終わるまで」
 聞こえてきた声は案の定後輩で、俺は我ながら無茶苦茶な理由をつけて一方的に電話を切った。今はとてもじゃないが悠長に部活なんてやってる場合じゃない。
 春休み中にも練習はあるし、合宿もあるし、学校が始まっても部活をやっていたら帰るのが遅くなる。
 学校はやめられなくても、せめてそれ以外ではエドワードの傍にいてあげたかったから、俺は部活を辞める気でいる。まぁ、俺が傍にいなくてもエドワードは平気かもしれないけれど……。
「あんた、部活辞めるの?」
 今のやりとりで、大方想像がついたのだろう。電話を切ると、姉ちゃんが開口一番そう言った。
「うん」
「部活しか取り柄ないくせに?」
「合気道はやめないよ。落ちついたら道場に顔出す」
「じゃあ部活やめるのはやっぱ、エドちゃんのため? 恋なの? 青春なの?」
「ばッ、ちッ、違う、そんなんじゃ――」
「今馬鹿って言おうとした?」
 耳ざとく姉ちゃんが低い声を出して拳を固め、俺は激しく首を振る。今度はちゃんと気付いて途中でやめたのに、これで殴られたら理不尽だ。
「そんなんじゃない――とも言えないかもしんないけど……ほら。環境変わって不安だろうし、ちゃんと言葉わかるのも俺しかいないし……なんつーか、心配なんだよ」
「エドちゃんは別に、あんたがいなくても大丈夫と思うけどなー」
 うッ、それは俺もそう思うけど。いやでも、強がってるだけかもしれないし。
 姉ちゃんは知らないだろうけど、エドワードは大丈夫じゃなくても大丈夫じゃないとは言わないんだ。大抵自分で抱え込んでなんとかしようとする。そして何とかしてしまう。エドワードの中でもそれが当たり前になっているんだろうけど、それじゃいつか潰れてしまう気がする。
「大丈夫っぽく見えるけど、エドワード、すぐ強がるんだ。本当に大丈夫かわかるまでは、傍に……」
「何の話だ?」
 突然闖入してきた声に、俺は舌を噛みそうになった。
 部屋着に濃いグレーのカーディガンを羽織ったエドワードが、いつの間にか姉ちゃんのすぐ真横にいる。
 落ちつけ俺。けっこう早口だったし、きっと何を言っていたかエドワードには解っていない筈だ。
「なんでもないよ。それより朝ごはん……」
「もう昼だし。それより咲良、あたし用事があるの。夜はリツカんち泊まるから、母さんにそう言っといて」
 よし、今日は姉ちゃんがいない。バラ色の一日だ。
 とても幸せな気分に浸りながら改めて姉ちゃんを見てみれば、ワンピースにジャケットを羽織り、髪は整髪料まで使ってセットしてて、いやにめかしこんでいる。姉ちゃんの口からは女友達の名前しか出なかったけど、これは……多分男と会うな。
 ちなみにリツカというその姉ちゃんの親友は、俺もよく知る人である。フルネームを汐崎律華、卒業式に俺が告って振られた先輩だ。それを思い出すと、少しだけ胸が疼いた。でも前みたいな痛みではない。
 その痛みだって、感じていたのは凄く短い時間だった。幸か不幸か、すぐそれどころではなくなっていたから。逆を言えば、すぐそれどころじゃなくなってしまうくらい、淡い想いだったのかもしれない。
 とにもかくにも、言うなり姉ちゃんは飛び出して行った。多分、でかけるところに電話が鳴ったんだろうな。
「……母さん、いないの?」
 母さんに言っといてってことは、そういうことになる。聞いてみるとエドワードはすぐに答えてきた。
「すみれさんなら、朝早くにでかけた。楓さんが起きるよりも前だ。朝食なら……もう昼食だが、私でよければ何か作ろうか?」
「あ、うん、いや、……う、うん」
 思い切りどもってしまった。
 すみれというのは母さんの名前だ。つまり母さんが朝早く出かけた。姉ちゃんも今出かけた。ていうことは、何だ。今この家には俺とエドワードしかいないというわけか。
 なんだかふわふわしたような、落ちつかない気持ちになりつつ、エドワードを追ってリビングに向かう。キッチンではエドワードが冷蔵庫の中を睨んでいた。
「ええと……、たまごやき……? くらいなら、作れそうかな」
「な、なんでもいいよ。俺なんでも食えるから」
 な、なんだこのシチュエーション。落ちつかない。
 母さんは一体いつ帰ってくるんだろうと、俺はふとカレンダーを覗きこんだ。よく母さんがメモ帳代わりに予定を書きこんでいるので、何か書いてあるかもと思ったのだ。だがそこで、俺はとんでもない走り書きを見てしまった。
 8:30発、新幹線。
 母さんが新幹線に乗るって言えば、目的はひとつしかない。……そうだ、思い出した。
「……そういえば母さん、父さんに会いにいくって、言ってたな……」
 春休みになったら父さんに会いにいくんだって、母さんは楽しみにしていた。具体的な予定は忘れたけれど、日帰りではなかった筈だ。
 律華先輩のとこに泊まると言っていた姉ちゃんの声が頭によみがえる。ってことは……
「今日はずっと、二人きり……?」
 そんな俺の呟きは、卵が焼ける音に掻き消された。