突然色んなことが起こりすぎて思考を処理しきれず、ヴァイトはジリ、と地面を踏みしめた。アリーシアの騎士――、考えてみればいないはずがないその存在を、今まですっかり失念していた。
「帰るぞ、アリーシア」
ヴァイトやルーエンには目もくれず、オルニスがアリーシアに手を差し伸べる。だがアリーシアはその手を取れずにいた。
「ま……待って、オルニス。私は……」
「聞こえなかったのか? 帰るぞ」
びくり、とアリーシアが体を震わせる。その顔は色を失っており、見かねてヴァイトが口を挟む。
「おい。話くらい聞いてやっても……」
ゆらり、とオルニスが頭を上げ、ヴァイトの方を見る。殺気のこもった一瞥を受け、ヴァイトは舌打ちすると咄嗟にフラガラックに手を掛けた。
「か、帰りません!」
その二人の均衡をアリーシアの叫び声が裂く。オルニスが、ヴァイトからアリーシアへと視線を戻す。
「オルニス、私は帰りません! このままじゃ、私の祈りだけじゃ、もう世界を支えきれません。貴方にもわかっているでしょう?」
「ああ。それが?」
ぴくりとも表情を動かさずに、彼は即答した。まるで大したことではないと、そう言わんばかりの様子にアリーシアが二の句を失う。
「騎士が守るのは世界ではない。神子だ。神子を聖地に据えること、騎士の職務はその一点に尽きる」
オルニスは淡々と述べると、ルーエン、そしてヴァイトの二人に順に視線を這わせた。
「確かに、間違ってはいませんね」
ルーエンは肯定したが、ヴァイトは舌打ちした。
そう――それが神殿騎士の定義だ。間違ってはいないのだ。だからこそ、
(虫唾が走る……)
斬りかかりたくなる衝動を、ヴァイトは辛うじて押し殺していた。
オルニスがこちらに対して友好的でないのはわかる。理由はどうあれ、自らの神子が他所の騎士に連れまわされていた事を考えれば無理もない。だがアリーシアへの態度や視線の冷たさがどうにも気に入らない。そんなものはヴァイトの個人的な感情だ。
それに振り回されている場合ではない。エミリアーナとその騎士は、世界の神子を全て殺すと言った。ならば次に狙われるのはシスティナだ。
例えシスティナに神子としての力がなくても、エミリアーナは恐らく容赦しない。あの狂った瞳はそう思わせる。
「……アリーシア」
時だけが流れる。焦れたようにオルニスがアリーシアの名を呼ぶ。彼女は諦めたように息を吐き出すと、彼の方に向き直った。
「……わかりました。帰ります」
「アリー!」
「私のことより、システィナさんを守ってあげて下さい。あの、エミリアーナって子……、きっと次はシスティナさんを狙う」
顔だけでアリーシアが振り返る。そして、薄く微笑んだのは心配を掛けないためだろう。
確かに、今一番危険なのは騎士と行動を共にしていないシスティナだ。
それでなくとも、元々アリーシアが行動を共にしなければいけない理由はないのだ。アリーシアだって扉の場所は知らないし、強力な魔法が使えるが、体力は非常に低い。ヴァイトとルーエンの戦闘力があれば必ずしも必要な戦力ではない。ならばアリーシアの安全のためにも、世界のためにも、聖地にいた方が良いに決まっている。
決まっているのに。
――私は、外の世界を見たかった。普通の『人』として暮らしたかった。
まるで絶対の禁忌を口にするかのような、アリーシアの震える声が耳から離れない。
「ヴァイ……」
手を掴まれて、アリーシアが目を見開く。だが、オルニスが近づいてくるのに気が付いて、アリーシアは咄嗟にその手を振り払った。そして、両手を広げてオルニスの前に立ち塞がる。
「オルニスお願い、言うことを聞くから……ヴァイ達には手を出さないで……」
「アリー!? ふざけるな、そこをどけ!!」
ヴァイトの怒声を背中に聞きながらも、アリーシアはかぶりを振った。
「ごめんなさい、でもだめなの……オルニスと戦っても勝てない」
「取引になっていない、アリーシア。オレにお前が従うのは当然だ」
「……お願い……」
アリーシアを捉えた血のように紅い瞳に、苛立ちが揺れる。オルニスは顔に手を当てて、長い溜息をついた。
「わかった。ならば帰るな。行け」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからず、アリーシアが聞き返す。聞き間違いかと思ったが、オルニスの唇が愉し気に弧を描くのを見て、それが聞き違いでないことを悟った。聞き違いではなかった。だが、解釈が間違っていた。
オルニスの手に漆黒の剣が生まれ、ヴァイトがフラガラックを抜き放つ。だがオルニスは、その剣を迷わずアリーシアの胸に突き立てた。
「……ッ!!」
ヴァイトだけでなくルーエンも。咄嗟に何が起こったのか理解できなかった。
手を広げて立ちはだかるアリーシアのその背から、黒い剣先が覗いている。
「さあ、行け。アリーシア」
凍るように冷たい声を残して、オルニスが剣を引き抜く。アリーシアの体が大きく傾き、ヴァイトはフラガラックを離すと両手を伸ばしてその体を受け止めた。
「この……脱力感は……?」
ルーエンが胸を押さえて地面に膝をつく。ヴァイトもまたアリーシアの体を抱きながら、地面に崩れ落ちた。
ドラゴンズヘブンのときと同じ――、傷を負ったアリーシアが、自らの命を繋ぐためにエナジードレインを発動させたのだ。
「貴様……、この為に、アリーを!」
定まらない焦点の向こうで、オルニスがつまらなそうにこちらを見下ろしている。
彼もまたエナジードレインの影響を受けているはずなのに、なんら表情を変えることなく。その理由など考える余裕もなかった。怒りだけで、ヴァイトはフラガラックを掴んだ。