博愛


 暴れるアリーシアを何度も取り落としそうになりながら、それでも無事部屋まで戻ってこれたのは、思うよりずっと彼女が小さくて軽かったからだった。それに、アリーシアも部屋が近づくにつれ、頭が冷えたのだろう、暴れることはしなくなった。
 すっかりおとなしくなったアリーシアを下ろすと、彼女は叱られるのを覚悟した犬のようにしゅんと頭を垂れていた。
「アリー」
「ご、ごめんなさい……! 本当に、立ち聞きするつもりじゃなかったんです」
 叱るつもりではなかったが、アリーシアはぎゅっと目を閉じ、首を竦めて、さっきと同じ言い訳を口にした。どの道、そんな態度を取られては苦言を呈するのも気が引ける。溜め息をかみ殺して、ヴァイトは小さく呟いた。
「……もういい」
 どっと疲れが押し寄せて、ヴァイトはベッドの上に体を投げ出した。仰向けになって天井をぼんやり見ていると、アリーシアの金の瞳に覗きこまれる。
「もういいって、私が立ち聞きしてたことですか? それともシスティナさんのことですか?」
「両方」
「……ヴァイは、今もシスティナさんが好きなんでしょう?」
 投げ遣りな声にアリーシアは眉をひそめた。一方ヴァイトの方も、あまり触れられたくないことをストレートに問われて顔をしかめる。
「さあな」
「じゃあどうして私と一緒に来てくれたんですか? 力を持たないシスティナさんの前で私が力を使って、彼女が傷つくのを心配したからなんでしょう? ドラゴンズヘヴンで彼女の名前を呼んだのも、私とエタンセルに来られてほっとしたって言ったのも――」
「ほんとお前って、無遠慮に人の事情に首突っ込んでくるな」
 なんとなく、アリーシアと初めて会ったときのことを思い出しながらヴァイトはそう揶揄した。そして、アリーシアはあのときと同じように「ごめんなさい」と謝ったが、あのときのように引きさがりはしなかった。
「でも、ヴァイに後悔して欲しくないんです。私、ここまで連れてきてもらったこと、本当に本当に感謝してるから……だから、私は嫌われてもいいんです。ヴァイには幸せになってほしい。迷惑かけた分、恩返ししたいんです」
 耳を塞ぎたくなる気持ちに反して、降ってくるアリーシアの言葉はすっと心に浸透していく。その瞬間ヴァイトは、長年胸に渦巻いていた迷いや葛藤が、一つの解を得て消えて行くのを感じていた。
(ああ、そうか)
 こんなにすがすがしい気分になったのは何年ぶりだろう。そう考えて苦笑しながら、ヴァイトはベッドから半身を起こした。そして、きょとんとする少女を見つめる。
「同じだよ」
「……え?」
「俺も、システィナに対して同じように思ってた。だからここまできた……それだけだ」
 アリーシアは一瞬だけ目を見開き、それから胸の前で手を組んで視線を落とした。
「……でも、システィナさんは……違うと思います。素直に言えないだけで、ヴァイに傍にいて欲しいんだと思います」
「あいつの本心がどうかは知らんが、どちらにせよもう無理なんだよ。俺はなかったことになんかできない。そんな器用じゃないんだ」
 人事だというのに、アリーシアは自分の生い立ちを語ったとき以上に悲壮な顔で俯く。その頭にぽんと手を置き、ヴァイトは柄にもなく明るい声を上げた。長年胸に乗っていた重石が外れた今、それはひどく容易なことだった。
「あのときの痛みや後悔も、今の俺には大事なものなんだ」
「ヴァイ……」
 アリーシアが顔を上げる。その表情がまだ浮かないのを見て、ヴァイトはふっと苦笑した。
「俺は、冷たいかな」
「そう言う人もいるかもしれません。でも私は、ヴァイは優しい人だと思います。優しすぎるから誰も傷つけないように、ヴァイは周りと距離を置いて一人になろうとするんです。でも、あなたは知らない」
 アリーシアの金色の瞳が、酷く大人びて瞬く。我知らず見惚れて、ヴァイトは声を上げるのも忘れた。
「人は、あなたが考えるように、少し傷つけられたくらいで絶望しない。傷つけあう触れ合いは、孤独よりずっと温かいんですよ。ヴァイ」
 アリーシアの細い手が伸び、ヴァイトの手を包む。それは彼にとって、これまで経験したことのない温かさだった。きっと、この手を振り払っても彼女は傷ついたりしないのだろう。なんとなくヴァイトはそんなことを思った。そんなアリーシアの存在は、強く大きく感じられた。  



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