逡巡


 それから、しばらくどちらも言葉を発することはなく、動くこともなかった。凍りついてしまった場を氷解させたのは、扉の向こうでしたルーエンの穏やかな声だった。
「頃合いでしょうか?」
 幾分かほっとして、ヴァイトが立ち上がる。扉を開けると、ティーセットを乗せたトレイを手にしたルーエンがつかつかと部屋の中に入りこんできた。
「……いつから外に?」
「嫌ですね、まるで僕が立ち聞きでもしてたみたいに」
 ティーセットの置き場を探して、ルーエンがきょろきょろと部屋を見回す。
「いつ見ても色気のない部屋です」
「俺に求めるな、そんなもの」
「それもそうですね」
 即答すると、ルーエンはひとつしかない机にトレイを置き、ひとつしかないティーカップに紅茶を注いだ。
「そうそう、システィナに叱られてしまいましたよ。あのカップ、彼女のお気に入りだったらしいです」
 アリーシアにカップを差し出しながら、思い出したようにルーエンがくすくすと笑う。経緯を知らないアリーシアは不思議そうな顔をして、ヴァイトは顔を歪めた。
「でも、ヴァイトの頭を叩き割ったと言ったら、まんざらでもなさげでしたよ」
「あ……ヴァイの頭の傷って」
 紅茶に口をつけようとしていたアリーシアが、はっとして顔を上げる。ヴァイトはますます眉間の皺を深めてルーエンを睨みつけた。
「お前って奴は……どうしてそう、余計なことばかり」
「あなたが嫌がるからでしょうか」
「システィナに似てきたな、お前」
「そりゃあ、いなくなってから日がなあなたの愚痴を聞かされれば、感化されますよ。僕だってあなたに言いたいことの一つや二つや十万くらいありますし」
 急に桁が飛んだことを突っ込むべきかどうか迷って、ヴァイトはそのまま沈黙を決め込んだ。だが意外にも、アリーシアが小さく笑い声を上げる。
「ヴァイって、苛められっこなんですね」
「……」
「良かった」
「……は?」
 心外なアリーシアの言葉にも沈黙を守ったが、続いた言葉の真意を計りかねて、思わず聞き返してしまう。そんなヴァイトを見上げて、アリーシアは微笑んだ。
「自分でやったのかと思ってたんです。頭。ルーさんがやったんですね」
「ああ……、いや、よくないだろ。それに、なんだその変な呼び方。こいつに懐柔されるなよ、見た目より腹黒いからな」
「あなたが純粋すぎるだけですよ、ヴァイ?」
「……やめろ、その呼び方。お前にされると鳥肌が立つ」
 ヴァイトがそう言って腕をさすると、アリーシアはなおも笑い声を上げた。
「羨ましい。仲がいいんですね」
「ええ」
 ルーエンがアリーシアにそう言って微笑みかけ、ヴァイトは否定しかけて止めた。そうすればまた二人に笑われそうだったからだ。悪気のありまくるルーエンと違って、アリーシアに悪気はないのだろうけれども。
「さて……これからどうするつもりなんですか、ヴァイト?」
 ふとルーエンが真顔に戻って、そんなことを聞いてくる。だがそう言われても、ヴァイトには答える術がなかった。
「どうするも何も……、俺はただアリーに頼まれてここに来ただけだ」
「では騎士に戻る気はないのですね」
「当たり前だ。今更そんなことできるわけがないだろ。むしろ俺はエタンセルじゃ犯罪者だ」
「ところが、あなたは長期の視察に出てることになっているんですよねえ。どちらにせよ、赤の騎士の後継なんてそう簡単に現れませんし。そんなわけで、戻るか戻らないかはあなたの気持ち一つなんですよ」
「……信じられない。じゃあ、システィナは何も話していないのか」
「僕は勝手に察してますけどね。その上で言いますけど、考えてもみて下さい、あのプライドの高いシスティナが真実を言えると思いますか?」
 まるで何もかも見透かしているようなルーエンの言い様に、ヴァイトは嫌悪感を覚えた。彼なりに居場所を提示しようとしてくれているのもわかってはいたが、別にそんなものは望んではいなかった。
「何にしても、俺はエタンセルに戻る気はない。……ただ、アリーにもし目的があるなら、それを果たすまではここにいる。今の俺は彼女に雇われている身だからな」
 唐突に話を自分に振られて、アリーシアはカップを口から離した。そしてそのまま俯いてしまう。
「私の……目的……」
 カップに残った紅茶に、不安そうな自分の顔が映って、アリーシアは目を閉じた。
 いざ目的と言われてみると、途端にわからなくなる自分がいた。
 最初は逃れたいだけだった。そのうちに、力を貸さない西の神子への不満が募り、会って文句を言いたくなった。
 だがシスティナは、力を貸さないのではなく、力を持たないということを知ってしまった。そして、それによって彼女はむしろ、苦しんでいるのだということも。それは知りたくない事実だった。
 だけど、ただ彼女を責めるためだけにエタンセルに来たかというと、そうではない。
「……少し、考えさせて下さい」
 目を閉じたまま、アリーシアは残っていた紅茶を飲み干した。



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