過去


 頭がじんじんと痛んでいたが、走っているうちに直に気にならなくなっていた。
 最初は無意識に城の入り口へと向かいかけたが、テラスから来たアリーシアがそこまでの道順を知っているわけがない。思い直してブレーキをかけ、踵を返してテラスの方へと向かう。急がなければ、ルーエンと話していた分、時間が過ぎてしまっている。
 果たして、ヴァイトがテラスに辿りついたとき、アリーシアはちょうど竜を呼び寄せたところだった。
「アリー!」
 彼女が竜の首に手をかけたのが見えて、咄嗟に叫ぶ。電気でも走ったように、びくりとアリーシアの手が跳ねて止まった。
 振り向いた彼女がこちらを向いて、ヴァイ、とその唇が動いたけれど声にはならない。ひとまずは間に合ったことに安堵してヴァイトが歩き出すと、アリーシアはちいさく首を振って、こちらに向かって手をかざした。

『我、アリーシア・クラフトキングダムが盟約により力を行使する。彼の者の歩みを阻め』

 ぴしり、と空気が張るような音を感じる。そして次の瞬間、踏み出した足は見えない壁に突き当たり、それ以上前に進むことを阻止された。手を前に出しても、同様に途中で抵抗を感じ、それ以上先には行けない。
 そうしている間にも、アリーシアは竜の背に乗り、大きな羽根がニ・三度羽ばたく。このエタンセル城のテラスは、かつて実際に竜を移動手段として使っていた頃のもので、充分な広さと高さがあり、柵がない。何の問題もなくこのまま飛び立てるだろう。
「待て、アリー!!」
 焦燥に駆られ、再びヴァイトは叫んだ。だが、届いていないわけがないのに、アリーシアはこちらを向かなかった。
 その姿が――全く似ていなのに――システィナと重なった。
 ギリ、と血が滲むほど唇をかみしめる。

 ――俺が守るから、一緒に行こう。この国を出よう。

 まだ自分の力で全てを守れると、救えると慢心していた頃は、億面もなくそう言えた。
 だが言えたところで実行できなければ意味はない。無力さと自分の驕りを悟ったとき、想いも心も閉ざした。

『それでお前は強くなったか?』

 自問なのか、フラガラックの声なのか、どちらともつかなかったが区別することに意味はない。
「……ッ!」
 ヴァイトは咄嗟にフラガラックを鞘から引き抜いていた。
赤の騎士(シュバリエ・ヴェルミリオン)が命ずる! フラガラックよ、我が呼びかけに応えよ!」
 途端、鞘から眩い光が零れ出して、薄闇に包まれだした周囲を染めた。フラガラックに宿る力の脈動が、手を通して体中に流れ込んでくるような感覚。アリーシアが手をかざして唇を動かすのが見えたが、それよりも先にヴァイトは動いていた。
「うおおおお!!」
 流れ込んでくる力をそのまま解き放つような感覚で、光放つフラガラックを袈裟がけに振り下ろす。しゃん、と硝子細工が割れるような脆い音が耳の奥に残った。ゆっくりと歩き出すが、もう歩みを止める物はない。それを確認して、ヴァイトは走り出した。あと少しで届くというところで、伸ばした手は空を掴み、無言のままアリーシアは竜と共に大空へと滑り出す。
 それを目の当たりにしても、なおヴァイトは走り続けた。そしてテラスを離れた竜に向かって、ありったけの力を込めて跳躍する。

「ヴァイ!!」

 風の音を縫って、ようやく――アリーシアが名を呼んだ。
 テラスの床はもう終わっている。着地する場所はなかった。わかっていて飛んだ。落ちればもちろん生きてはいられないだろう。だが死を覚悟して飛んだのではない。

『我、アリーシア・クラフトキングダムが盟約により力を行使する! かの者を天地の理より解放せよ!!』

 ぴたりと落下が止まる。
 アリーシアの魔法によるものだろう。
 死ぬ覚悟をしなかったのは、彼女が助けてくれると踏んでいたから。どこにもそんな保証がないそれは、無謀な賭けとも言えた。昨日の自分ならしない賭けだっただろう。
 ふわふわと不安定に漂う体を、ドラゴンの背が受け止める。
「どうして、こんなこと――」
 怒ったように、アリーシアが問いかける。ヴァイトは光の消えたフラガラックを鞘に戻すと、彼女の金色の瞳をじっと見つめた。
「……ヴァイ?」
「俺はもう逃げない」
 自分に言い聞かせるように、噛みしめるように呟く。
 戸惑いの見えるアリーシアから目を逸らさないまま、ヴァイトは続けた。
「お前の言う通り、システィナは俺にとって特別な人だ。神子としての力を持たず、それでも神子であろうとして傷ついていく彼女を守りたかった。けれど、エタンセルにいる限り、システィナは神子という鎖に縛られる。だから俺は、彼女にエタンセルを出ようと言ったんだ。<赤の騎士>として最大の禁忌――神子を聖都から連れ去ろうとした」
 突然語りだしたことに、アリーシアは最初面喰ったような顔をしたが、すぐに真顔に戻ると黙ってこちらの話に耳を傾けた。だがそこで一度言葉を切ると、アリーシアが焦れたように口を挟む。
「システィナさんは……なんて答えたんですか?」
「そのときは同意してくれた。それで俺達はエタンセルを逃げ出す計画を立てた。だが彼女は約束の時間を過ぎ、夜明け間近になっても、俺の前に現れることはなかった……そのまま、俺は一人でエタンセルを去った」
 ずっと思い出すことすら封じた過去は、口にするとまだ痛かった。古傷の筈なのに、まだ血が流れているかのように胸が疼く。そんな痛みなどアリーシアは知る由もないはずなのに、見つめ返してくる金の瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「それから俺は過去を捨てて生きてきた。だが、捨てたつもりになっていただけだったんだ。また誰かに関わり、傷つくのが怖かっただけだ。俺は心のどこかでシスティナを恨んで責めていた。けれど悪いのは俺だ。彼女に選択を委ねてしまった。力がなくてもあいつは神子だった。その彼女にエタンセルを捨てさせようとしてしまった。無理矢理にでも攫えばよかったんだ、手を離さなければ良かった!」
 後悔に、知らず声を荒げていた。だが髪に温かい何かが触れて我に返る。アリーシアが手を伸ばし、そっと頭を撫でていた。
 触れられて、忘れていた傷が鈍く痛んだ。だが次の瞬間には消えていた。恐らく、アリーシアが治してくれたのだろう。
「違うよ、ヴァイ。ヴァイが責めていたのは自分自身。もう許してあげて」
「……ああ。そのために」
 呟きを途中で切って、ヴァイトは頭に触れるアリーシアの手を握った。
「お前を連れ戻しにきたんだ、アリー。俺のことは全部話した。だから、今度はお前のことを教えてくれ」
 金の瞳が、驚いたように瞬く。
「それまで、俺はこの手を離さない」
 アリーシアが見開いた瞳を閉じると、涙が零れ落ちた。
 竜が大きく旋回してエタンセル城のテラスを目指す。その上には、こちらを見上げるルーエンの姿があった。



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