選択


 気まずい沈黙と時間ばかりが流れていく。
 アリーシアに会う前に言うべきことは考えていたはずだったのに、いざ彼女を前にすれば、何の言葉も出てこない。もっと具体的にかけるべき言葉を考えておくべきだったと、今更そんな後悔をしても遅く、ヴァイトはただただ舌打ちしたいのを堪えていた。
 結局、何をしても、何を言っても、これでは怒っていると思われそうだ。アリーシアは、きっと口を開けば詫びるだろう。そう思えばこそ、先にその必要はないことだけは告げておきたい。しかし、詫びるなといえば余計に彼女は委縮する。
 そんなことを考えている間にアリーシアが顔をあげて、ヴァイトは気が重くなった。だが、彼女から紡がれたのは詫びではなく。
「聞いてもいいですか……?」
「……何だ」
 僅かばかりほっとする。だが何を聞かれるのかと考えれば、気持ちは軽くなるどころか重さばかりが増す。しかし、彼女が問うてきたのはヴァイトが考えていたこととは少し違った。
「ほっとしているって、言ってましたよね。どういう意味だったんですか?」
 一瞬、今ほっとしたことを見透かされたのかと思った。
 しかし口にしてはいないので、何のことかと考えあぐねる。
「エタンセルに着く前。ヴァイ、そう言ってました。巻き込んだとは思うな、むしろほっとしているって」
「……ああ」
 アリーシアにそう補足されてようやく思い出す。確かにそう言った。だが、その答えを言うなら、直接的ではないにしろ、聞かれたくないこととほぼ同じような内容になる。
 だからといって、うまくごまかす術を知らないヴァイトは、ありのままを口にするしかなかった。
「お前が一人でエタンセルを訪ねることを思えば、それよりは良かったと思ったんだ。あのときお前と会って」
「よく……意味がわかりません」
「だろうな。結局、俺がいたところで何が出来たわけでもなかったし」
 それきりまた沈黙が訪れる。
 実のない会話だった。
 アリーシアは多分、もう察しているのだろう。それがわからないほど愚かでもない。何しろドラゴンズヘブンで聞かれてしまっているから。だから、何を聞きたいのかわかっているし、ヴァイトも何を話せばいいのかわかっている。わかっているのにできないのは、そう――逃げているだけだ。この期に及んで。
「……ドラゴンズヘブンで」
 心臓が大きく脈打つ。
 やはり見透かされていた。
「ヴァイは、システィナさんのことが大事だから、私についてきてくれたんですよね」
 なのに、そう言われるまで自分から何を言うこともできなかった。
 忘れたいこと、触れられたくないこと。ここまできても、それはやはり変わらない。ならどうしてここまで来てしまったのか、そんな自分の声がする一方、やはりどこかほっとしているのも確かだった。
 でもそれは、アリーシアが言うようなことが理由かといえば、少し違う気がした。いや、たった今までは自分でもそうだと思っていたのだが。
 自分でも自分がよくわからなくなってくる。そんな状況だから、アリーシアにちゃんと説明することもできなかった。また沈黙が流れる。そろそろルーエンが戻ってくるのではないか、そんなことを期待する自分に嫌気がさした。
「私は……」
 またアリーシアが口を開く。今度こそ詫びられるのだろうか。それとも責められるのだろうか。どちらも覚悟したが、次もそのどちらでもなかった。
「私は、人の身に余るほどの力をこの身に宿しています。だから、普通の神子よりもさらに行動が制限されていました。最初は本くらい与えられたけれど、記してある魔法を片っ端から体現したら、本を読むことも禁じられました。そのうち、自分の魔力を自分でも持て余すようになると、私の力を大地のエネルギーに循環させる陣を敷かれ、そこに幽閉されました。そして十数年、私はただただ、そこで世界に力を注ぎ続けました。クラフトキングダムの神子として」
 語られたのは、彼女の生い立ちだった。今まで、決して口にはしなかった自身のことを、初めて今彼女は口にしていた。その真意を探る間もなく、彼女はうなだれたまま淡々と続ける。
「だから」
 そこでやっとアリーシアは顔を上げた。金色の瞳には涙などなく、だがいつものぼんやりとした表情でもない。
「だから、クラフトキングダムに帰ります。帰って、神子としての自分の務めを果たします。……ありがとう、ヴァイ。私の我儘に付き合ってくれて」
 立ち上がって、アリーシアは笑った。その笑顔は晴れ晴れとしていて、陰りなどどこにもなかった。
 きっと、泣くと思っていた。そう思って困惑していたのに、そんな顔など微塵も見せなかった。泣けば、泣くなと言うくらいはできた。詫びられれば、詫びるなと怒ることもできた。だが笑いながら別れを言い渡されるのなら、それを止めることはできない。乾いた声は喉に張りついたまま出てこない。歩きだしたアリーシアが横を通り過ぎ、背中で扉が閉まる音がする。
「アリー」
 呼びかけはあまりにも遅かった。
 応える者は誰もなく、のろのろと振り返って扉を開ける。そこにアリーシアの姿はなかったが、代わりにトレイを手にしたルーエンが立っていた。
「……お前」
 いつからいるのだと聞こうとしたが、できなかった。それが声になる前に、ルーエンが片手でトレイを持ったままもう片方の手でポットを取り、カップに注ぐ。そして張りつけた微笑みを寸分も動かさないまま、その中身をヴァイトに向けてぶちまけた。
 湯気の立つ紅茶を前髪から滴らせながら、すんでのところでヴァイトは悲鳴を上げるのを堪えた。熱湯ではないにしろ熱いものは熱い。声をかける暇はいくらでもあったはずなのに、つい一連の動作を眺めてしまった自分がとにかく悔しい。
「――んだよ」
「ほとほと呆れているんですよ」
 言葉通り呆れた声をルーエンが上げる。手にしたティーカップから、ぽたぽたと紅茶の雫が垂れて、絨毯に染みを作っている。
「システィナに怒られるぞ」
「そうですね、どうせ怒られるなら、ついでにカップであなたの頭をカチ割っておきましょうか」
「それは逆に褒められるかもな」
「――追いかけないんですか」
 唐突に話を戻したルーエンに、ヴァイトは苛立ちながら溜め息を吐いた。
「追いかけても、俺には何も――」
 その途端、ガシャーンと陶器の砕ける小気味良い音が回廊に響いた。同時に、頭に激痛が走る。反射的に口を開いたが、怒ることも茶化すこともできずに閉じたのは、眼鏡の奥の目が冷えきっていたからだった。
「いい加減にして下さい。そんなに傷つくのが怖いですか? 傷つけるのが怖いですか?」
 紅茶の雫に赤いものが混じる。だがルーエンは顔色ひとつ変えず、手に残っていたカップの持ち手を投げ捨てた。
「だったらどうしてここに来たんですか。孤独ひとりが怖いからでしょう」
「…………」
 違う、とは言えなかった。むしろ、自分でも答の出なかったことが腑に落ちた気分だった。それが苛立ちよりも怒りよりもずっと大きいから何も言えなかった。
「いい加減にお決めなさい。痛みを恐れて孤独を選ぶか、孤独を恐れて痛みを受け入れるかはあなたの自由です、でも、今決めないならあなたは選ぼうと選ぶまいと、いずれ一人になってしまいます」
「ルー……」
 ようやく声が出る。だがルーエンは話は終わりとばかりに、壊れたカップをそのままにくるりと背中を向け、歩きだした。しばらく呆然とその背を見ていたヴァイトだが、外で竜の嘶きが聞こえると、ひとりでに足は動き出していた。
 そして、それが答だと気付いたときには、走り出していた。
 今度は、追い抜かれたルーエンがその背を見送ることになる。だがそれが視界から消える頃には、システィナから受ける小言のことを思い暗澹たる気分になっていた。



前の話 / 目次に戻る / 次の話

Copyright (C) 2012 koh, All rights reserved.