予兆


 ざわり、と大気が震えた気がした。
 絹のシーツをはがして起き上がると、周囲はまだ薄暗い。裸足のままで窓へと歩み寄り、カーテンを引くと、ちょうど空が白みはじめた。そんな時刻。
 景色は別段、いつもと何の違いもない。だけど何かが違う。そう感じるのは気の所為か。
 ――恐らくはそうなのだろう。
 小さく息を吐いて、ベッドへと引き戻す。そのときノックの音が聞こえて、それでわかった。気の所為ではなかったのだと。
 サンダルに足を入れ、厚手のガウンを羽織って扉を開けると、よく見知った青年が頭を垂れた。
「こんな時間に失礼。お耳に入れておきたいことが」
「構いません。何があったのですか」
「何というわけでは。本来なら夜が明けるまで待つべきでしたが――」
「それをわかっていて今訪れたなら、早急に用件を言うべきでしょう」
 冷たい声でぴしゃりと告げられ、青年は顔を上げると苦笑した。頭を下げたときに多少ずれてしまった眼鏡をきっちりと直してから、苦笑を消し、改めて声を上げる。
「……報復の剣(フラガラック)が目覚めました」
 滅多に表情を動かさない主が、その瞬間僅かに眉根を寄せたのを、青年は見逃さなかった。眼鏡を直す振りをして、その手の影でもう一度苦笑する。
「新しい主を見つけたのかもしれません」
「それはどうかしら」
 薄闇で、金の髪が揺れる。淡々と答えるその声にも、美しい顔にも、これといって感情の起伏はない。
「しかし彼は二度とフラガラックを手にすることはないと言っていました」
「あの人は気が変わりやすいから」
「では、エタンセルに戻ってくるのでしょうか」
「それは……どうかしら」
 さきほどと同じ言葉で否定しながら、彼女は真逆の内容を口にする。
「そういうところ、あの人は変に頑固ですし」
 やはり表情を動かさないまま、扉が閉まる。それを見て、青年はふう、と嘆息した。
「頑固なのは貴女の方だと思いますが。システィナ」
 恐らく聞こえていると思うが、返事はなかった。

 ■ □ ■ □ ■

 脳天に剣を突きさされながらも、ドラゴンはギャアギャアと喚きながら暴れまわる。振り落とされないよう剣にしがみつきながら、飛翔するドラゴンの頭の上でヴァイトは舌打ちした。
「ちっ、化け物じみた生命力だ。フラガラックでも倒せないなら封印するしかなかったのも道理だな」
『いい加減なことを言うな。そのとき我は起きていなかっただけだ』
「寝過ぎだ、剣。倒せるならとっとと倒しておけ、こんな迷惑な怪物」
『言うがごとく我は剣だ。優秀な使い手がいて初めて我は力となる』
「剣の自覚があるなら黙っておけよ」
 皮肉を言いながら、ドラゴンの体勢が安定したときを見計らって、ヴァイトは剣を引き抜いた。青い体液が溢れだし、いよいよドラゴンは苦悶にのたうちまわる。振り落とされそうになって、再び今度は背中に剣を突き立てる。咆哮が耳をつんざいた。
「時間が……ないんだ。大人しくしろ!!」
 そのまま背中を切り裂いてやろうとするが、突き刺さりはするものの、剣はそこからびくとも動かない。
「確かなんでも切り裂くとかほざいていなかったか、フラガラック! 嘘吐きはどっちだ!」
『黙れと言いながら話し掛ける。つくづく人間とは勝手なものだ。そもそも我の力は使用者の力に――』
 ドラゴンと風の唸りに耳がおかしくなりそうだった。だが「声」がふと途切れたのは、その所為ではないはずだった。その声を聞くのに聴覚は関係ない。手負いのドラゴンは益々暴れ狂い、まるで洗濯物のように上空に体が踊る。そんな極限の状態で、ヴァイトは冷静になるよう努めた。安定しない視界を、地上の一点に凝らす。
「……アリー……?」
 白い少女は、地上に立っていた(・・・・・)。表情までは見えない。それを確認した時点でドラゴンが宙返りをし、なんとかこらえたが、船酔いに似た気持ち悪さを覚えた。
 限界が近い。
 それを悟って、ヴァイトはもう一度剣を引き抜こうと、束を握る手に力を込めた。切り裂けないなら何度も刺すまでと力尽くで剣を引き抜こうとしたが、結局それもまた成すことはできなかった。それは力が足りなかったせいではない。突然、剣がまばゆく輝きだしたのだ。
「な、何だ!?」
 そのあまりの眩しさに咄嗟に目を覆う。次に感じたのは浮遊感、そして落下する感覚だった。もがいていたドラゴンが大人しくなり、飛翔をやめ、その結果墜落してゆく。次の異変は、手の中の感覚。
 だいぶ光にも慣れてきたので薄く目をあけると、光の中におぼろげに見える剣は、形も大きさも見知っているものとは違うように見えた。だがそれに構っている場合ではない。慌てて衝撃に備えると、それが襲ってきたのはすぐだった。同時に光も消える。
 ドラゴンが地上に落ちた。それを確認するなりヴァイトは剣から手を離し、その背から地面へと飛び下りる。
 そこで見たのは、巨大な剣が巨大なドラゴンを地面に縫いとめた、まるで絵画のような光景だった。



前の話 / 目次に戻る / 次の話

Copyright (C) 2012 koh, All rights reserved.