我儘


「何でも切り裂く剣など、願い下げです。剣が良いからだなどと評されては堪りません」
 今にして思えばそれは若さゆえの傲慢だったが、まさかそれが剣の気分を害するなどとは思わなかった。
 否、それも今にして思えばだが、気分を害するというよりその真逆だったのだろう。

『全てを切り裂く我が力を引き出せるかは、お前次第だ。お前にそれができるかな?』

 ――十三番目の赤の騎士(シュヴァリエ・ヴェルミリオン)よ。

 それから、それなりの時間を、男は剣と過ごしてきた。
 鍛錬と経験を積めば積むほど、自分が強くなるのに応じて、剣もまた強くなった。しかし少しでも心が揺らげば、剣は意志を離れて暴れる。勝手に手を離れ、敵を仕留め、いずこかへと消える。それを見る度に、まだ自分は剣を使いこなすに至らないのだと思い知らされる。まるで嘲笑われているかのようで不快で、負けず嫌いの男は再び自分の手に剣を呼んだ。
 だがある日を境に、男はフラガラックを手にするのをやめた。使いこなす自信など微塵もなくなったから、呼ぶことすらしなくなった。
 その誓いを破った今にしても、自信など砂粒ほども戻っていない。あのとき啖呵を切った少年の面影は、大人になった男からはすっかり消えてしまっていた。
「これは……俺の力なのか? ……いや」
 独り言を、即座に自分で否定する。
 ぞわりと背中に寒気を感じて振り返ると、服と同じくらい白い顔をしたアリーシアが立っていた。金の瞳は焦点があっておらず、うつろに空をうつしている。
 一歩、アリーシアが足を踏み出す。咄嗟にヴァイトは後ずさっていた。
 いつものぼんやりした少女の面影はどこにもなかった。別人のような顔からは驚くほどあどけなさが消えて、顔の造形自体は変わらないのにずっと大人びて見える。
 ゆらゆらと、操り人形のように、アリーシアは無造作に足を踏み出す。距離がまた一歩近づく。その異様さは空寒いものがあったが、ヴァイトは後ずさりかけた足を止めた。また一歩アリーシアが近づき、やがて手を伸ばせば触れる位置まで近づくと、ふらふらとアリーシアは手を伸ばしてきた。
 それだけのことなのに、戦いのさなかよりヴァイトは緊張していた。暑くもないのに頬を冷や汗が伝う。それはまるで死が歩いてきているようだった。もう後退したくても足が動かない。
「だ……め……」
 だが、アリーシアの手は、指が触れるか否かの位置まできてピタリと止まった。触れていそうで触れていないギリギリの位置で、止まったまま、少女の唇は震える声を紡ぐ。
「逃げて……嫌……、ころしたくない……、それなら……世界なんて滅んでいい……、エ……リオ……!」
 光の宿らない瞳から涙がこぼれていく。彼女が口にする言葉は支離滅裂で、呼んだ名前は知らないものだった。だが、自分の名を呼ばれるよりもそれはヴァイトの心を揺り動かした。
 自分の心にも、アリーシアが知らない名前がある。エタンセルへ行くのはアリーシアではなく、未だその名に縛られているからだ。けれどそれはもしかしたら、アリーシアも同じなのかもしれない。
 もちろんそんなものは、推測にすぎないことだけれど。
「アリー!」
 知らないうちに名を叫びながら、ヴァイトは延ばしたアリーシアの手を掴んでいた。その途端、体中の力が触れた手から抜けていくような感覚を覚える。苦しみはなかったが、気を抜けば意識を失って、そのまま目覚めないだろうと思った。だが渾身の力で掴んだ手を引き、そして、錘でも括りつけられているかのような体とアリーシアをひきずって、歩き出す。
 二、三歩先が、果てしなく遠い世界の果てのようだった。それでも。
「お前が何を考えているのか知らないし……、知る気もないし……理解する気もない。だから、」
 死ぬな。
 勝手な我儘と共に、アリーシアの細く白い手を抜けるほど引っ張ると、その指先をドラゴンの巨体に触れさせる。それを見届けてから、ヴァイトは手を離した。
「ヴァイ……」
 そのとき、確かに彼女はこちらを見て名を呼んだ。表情は、悲しそうでも嬉しそうでもなかった。目の中に溜まっていた涙が落ちて、だがそれは地面に着く前に、巻き起こった風に攫われる。
 唸り声のように大気が啼いて、黒い霧がドラゴンを包み、そして霧は尾を引くようにアリーシアに吸い込まれていく。それに呼応するようにフラガラックが輝きを失い、小さくしぼんでゆく。だが、ドラゴンの体もまた休息に収縮していった。そして霧が完全に消えてしまうと、光を宿したアリーシアの瞳がこちらを向いた。  



前の話 / 目次に戻る / 次の話

Copyright (C) 2012 kou hadori, All rights reserved.