カーン……カーン……
澄み切った空に吸い込まれていくような鐘の音に、少女はふと足を止めて顔をあげた。
雲ひとつない快晴、その太陽のまぶしさに、少女がオーシャングリーンの双眸を細める。
「どうかしたか? ラルフィリエル」
少女が足を止めたのに気付いて、彼女の前を歩いていた青年は、振り返って声をかけた。
燃えるような真紅の瞳と、腿にかかるほどの、ひとつに束ねた長い黒髪が印象的な青年。その両手に抱えた紙袋からは、いっぱいの野菜や果物が覗いている。少女の手荷物もまた似たようなもので、2人は買出しの帰りのようだった。
声をかけられ、ラルフィリエルと呼ばれた少女は空から彼へと視線を戻す。
「……鐘が」
だが言いかけてラルフィリエルは言葉を止めた。
鐘が鳴ったからといってどうということはない。
鐘の音は、教会から聞こえてくるものだ。定時になれば毎日鳴るもので、別段珍しいものでもない。
だから特別足を止めたことに理由などなかったのかもしれない。
ただ、今鳴った鐘の音は、定時を知らせるものではなかった。その時間にはまだ早い。それなのに鐘が鳴った理由も、ラルフィリエルには解っていた。だからと言って、やはり足を止めた理由になるものではない。
「鐘か。また結婚式があったのかな」
黒髪の青年が、鐘の音の理由を口にする。
彼が「また」と口にしたのは、ここ最近、結婚式が多く行われているからだ。だがその理由もまた、簡単に推察できるものであった。彼らが住み、今現在も歩いているこの国――聖ランドエバー王国では、丁度1年前の今頃に、現ランドエバー王が王女を娶って即位した。民の間で、おしどり夫婦と囁かれる彼らにあやかろうと思うものが少しばかり多くても、なんら不思議ではないだろう。
「ごめん、なんでもないんだ。……行こう、エスティ」
ラルフィリエルに促される形で、2人は――ラルフィリエルとエスティは再び家路を辿り始めた。
「ただいまー」
家の扉をくぐって帰りの挨拶を述べるなり、エスティは両手いっぱいの荷物をドサリと手近なテーブルの上に置いた。彼らの家は小さな食堂をやっているが、昼前の中途半端な時間で、まだ客の姿見受けられない。
「おかえり、エス、シェラ。買出しお疲れさま」
穏やかな声で2人を出迎えたのは、ラルフィリエルと似た面差しをした青年。彼女と同じ亜麻色の髪を持つ彼は絶世の美貌にして、だが決して女性ではない。
「ってあれ、リューンだけか? シレアは?」
出迎えたのが彼だけであったことを疑問に思ってエスティがもうひとりの"家族"の名を出すと、彼、リューンは隻眼を細めて微笑んだ。
「結婚式を見に教会に行ったよ」
「また!? 良く飽きねぇなぁ……」
リューンの言葉にエスティがあきれた声を出す。今月に入ってもう何回結婚式が行われたかわからないが、よほど店が忙しくなければ、シレアは頻繁に式を見物に行っているのだ。
「忙しくなる前には戻ってくるって言ってたから、そろそろ……」
「ただいまぁー!!」
リューンの言葉を遮って、華やいだ声とともに家の扉がバタン、と騒々しい音を立てて空いた。
果たしてそこに現れたのは、長いピンクベージュの髪と月明かりの夜のような瞳の少女。彼女もまた、この家の住人である。
「おかえり、シレア」
「姉さん、お帰りなさい」
「うるせぇなぁ。もうちょっと静かに入って来いよ」
リューンとラルフィリエルの穏やかな出迎えとは対照的に、エスティが顔をしかめる。
「なんですってぇ!」
当然、それを大人しく受けるシレアではない。怒声を上げてエスティへと突っ込んでいったのだが、エスティもエスティで、平然と突進してくる彼女の頭を片手で掴んでおしとどめた。
「むー!!!」
「ハイ、オカエリ」
頭をおさえられ、じたばたともがくシレアを面白そうに見下ろして、エスティがけらけらと笑う。そんな日常茶飯事に、リューンが苦笑し、ラルフィリエルが微笑む。それもまた、いつもの日常であった。
未だじゃれ合っているエスティとシレアを横目に、ラルフィリエルは買い出してきた食材を片付け、リューンが仕込みをし始めた。基本的に、買出しはラルフィリエルの城勤めが休みの日にまとめて行い、仕込みは当番制である。
それでもリューン達を手伝おうとどうにかエスティの手を抜け出し、シレアもまたエプロンを身に着け始めた。だが、
「ところで、結婚式は楽しかったか?」
そんなエスティの何気ない一言に、シレアはその作業を中断すると、目をらんらんと輝かせて彼を振り返った。
「うん!!」
力いっぱい答える彼女に、エスティが呆れ混じり軽いため息をつく。
「よく飽きねぇなぁ。今月入って何回目だよ」
半眼で指を折るエスティに、シレアがまたも膨れ顔でつっかかる。
「だってステキなんだもん!! エスティとラルフィも結婚すればいいのに」
シレアがそんなことを口走った瞬間、台所で『どこん』という変な音が響いた。
「お、お兄ちゃん?」
続いて、ラルフィリエルの狼狽した声が聞こえたが、決してシレアの言葉に狼狽したわけではないだろう。エスティとシレアが台所を覗いてみると、リューンが大根をまっぷたつにしていた。――ぶあついまな板ごと、である。
「リュ……」
口元を引きつらせながら、彼の名を呼ぼうとしたエスティは、すぐにそれが失策であることに気付いた。
包丁を握り締めながらリューンがくるぅり、とこちらを振り向いたからだ。
硬直したエスティの隣で、シレアは大きなため息をついた――。