「ラルフィリエル」
呼びかけに、ラルフィリエルは編み込んだ長い髪を弾ませて振り返った。
それは彼女の本名ではなく、決してラルフィリエルはこの名が好きではない。だが、今や多くのかけがえない人に呼ばれるから、いつしかこの名も大事なものに思えていた。
ともあれ、ラルフィリエルはその呼びかけに、微笑と共に応えた。
「陛下。どうかされましたか?」
本来なら敬礼すべきところであるが、彼がそれを嫌う為にあえて省く。それでなくとも、敬称で呼ばれることすら好まないこのランドエバー王国現当主は、ラルフィリエルにとっても主君である以前に、友人なのだ。
「……いつまで経っても、君に敬語を使われるのは、どうにも落ち着かないな」
ラルフィリエルの言葉を受けて、国王――アルフェスは軽く肩を竦めた。ラルフィリエルもまた、苦笑すると彼を真似て肩を竦めてみせる。
「城内では仕方ないですね。正直、私も落ち着きません。慣れたといえば、慣れましたけれどね」
そんな会話を、笑顔と共に取り交わす。和んだ空気のまま、アルフェスは他の話題を投げかけた。
「今日は、非番じゃなかったかい?」
「ええ、ですから今から帰りです。昨夜は夜勤でしたので」
問いかけに、特に意味はない。ただの他愛無い世間話だった為に、慌ててアルフェスは話を打ち切った。
「そうか、それは引き止めて悪かった」
元々ラルフィリエルは、親衛隊の騎士宿舎で寝泊りしていたのだが、少し前にそこを引き払っていた。今は城下町の小さな食堂で暮らしている――彼女の帰りを待つ者達と一緒に。
そんなことを思って引きとめたことを詫びつつ、だがアルフェスはもうひとつ、問いを投げかけずにいられなかった。
「――ラルフィリエル。騎士を続けてよかったのか?」
躊躇いがちな問いに、だがラルフィリエルにひとつも迷いは見られなかった。
「もちろんです。私は、自分で選んでこの道にいるのですよ。もちろん、この道を提示してくれたミルディン王妃には言い切れないくらい感謝していますが、私が今この道にいるのは私の意志です」
はっきりとそう答えたラルフィリエルに、アルフェスは幾分か安堵の色を、その表情に見せた。
「――そうか」
「ただ」
ふと、ラルフィリエルは笑顔を消すと、思案するように顔を引き締めた。
「元老院がその権限をほとんど陛下に委ね、姫がご成婚された今、元老院の私兵としても、プリンセスガードの役割としても、今の親衛隊は本来あるべき姿を失いつつあります。近衛隊との線引きも、曖昧なものになっています」
急に、仕事の話をする顔つきになった彼女に、アルフェスもまた神妙な表情になった。
だが、
「――ですから、早く元の仕事がしたいものですね? お世継ぎができればそうなるのですけれど」
ふいに悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女に、アルフェスは呆気にとられたように一瞬ぽかんと口を開けた。整った顔立ちが台無しの、彼のそんな表情を見て、ラルフィリエルが軽やかに笑った。
「お兄ちゃーん、ランチセット2丁〜!」
小さな食堂に、シレアの明るい声がこだまする。
ランドエバー城下町の小さな食堂。本来、スティンに籍を置く彼女であるが、スティン王アミルフィルドの特別な計らいにより、現在はそこが彼女の家だった。
この家は小さいが、彼女のほかにも数名、住人がいる。
まず、彼女の義兄のリューン・S・リージア。そして、その相棒、エスティ・フィスト。
2人は、出会ってからずっと旅を続けていた。だが、ユーヴィルの一件以来、エスティはついに根を下ろすことを決めたのだった。エインシェンティアの脅威が全くなくなった訳ではないことを考えれば、その決断に葛藤はあったのだが、それでもエスティが剣を置いたのは、イリュアの宣告があった為である。
「大事な話があるの。
――エスティくん、もう、"
衝撃的な言葉に、だが息を呑んだのはおよそエスティ以外の面子であった。誰もが驚きを隠せない中、当の本人であるエスティだけが、冷静にイリュアの言葉を聞いていた。
「もともと、デリート・システムはガルヴァリエルに対抗するために作られたもので、エスティくんが全てのエインシェンティアについて責任を負う義務なんてないのよ。……このまま"
去り際のイリュアの言葉――外界との関わりを拒む彼女と会うのは、本当にこれで最後になるだろう。
「これだけは覚えておいて。今更私がこんなことを言えた義理じゃないことはわかってるけど、それでもどうしても、知っておいて欲しいの。私は――あなたに幸せになって欲しい。それだけが、今の私の願いなの」
汚れた皿を見つめながら――皿洗いの途中だったのである――、イリュアの最後の言葉を思い返し、エスティはぼんやりと狭い食堂を見ていた。
禁呪を使い続けることが限界に達していることは、少し前から気付いていた。デリート・システムは確実に制御しているものの、その力を受け入れることはしていない。そのため、未だその力を使いこなせていないのだが、エスティにはそこから先に踏み込むことはどうしてもできなかった。
それでもこの先に、どうしても力を使うことが必要になれば――、もし万一、ユーヴィルのときのようなことがあれば――、イリュアの忠告を無視するかもしれない。だけど、今はこれでいいと思う。剣も魔法も必要ない今の生活に、何より仲間の笑顔を見ていられる今の生活に、この上ない幸せを感じられる、今の生活が。
「んもう、なにのんびりしてるのよー!」
そんなことを思っていたエスティだったが、突如厨房に飛び込んできたシレアの怒声に、驚いて縮こまった。
だがシレアの視線の先にいるのは、どうやら自分ではないようだ。
「これでも、急いでるんだけど……」
おずおずと声を上げたのは、野菜を切っていたリューンである。
「もーっ、前のオーダーも出てないのよー!? いいっ、もう、あたしがするっ」
叫ぶなり、フリルがたくさんついたピンクのエプロンをひらめかせながら、シレアがリューンを押しのけて厨房に立つ。
手際よく野菜を切り、炒め、瞬く間に注文を昇華するシレアの姿に、リューンと、横で皿を洗っていたエスティが、並んで拍手を送った。
「さすがシレアだねー」
「おー、早い早い。人には誰しも特技があるもんだなー」
「こらっ、エスっ! 失礼なこと言ってないで、さっさとそれ、持ってく!!」
一言多いエスティを怒鳴りつけながら、シレアは大きな溜め息をついた。
「あー、あたしが2人いればなぁー。エスにウエイトレスなんかやらせても華がないし、だからってお兄ちゃんとエスに厨房任せたら回転が悪いよぉ」
「……だったら、リューンにメイド服着せりゃいーじゃねぇか」
やはり一言多いエスティは、今度はリューンに無言でトレイで頭を叩かれた。
「……でもこの際、それもアリよね?」
「え!?」
本気の視線でシレアに見上げられて、リューンがたじろぐ。その間に、シレアはピンクのエプロンを素早く外すと、それを手に持って、焦るリューンににじりよった。
「お兄ちゃんなら、絶対似合うと思うの」
「ちょ、シレア。マジで? ていうか、目がマジ。ちょっとそれは……勘弁。あのね、ぼく一応、オトコ」
「知ってるけど、この際関係ないと思うの」
じりじりとあとずさるリューンの肩が、無情にも壁にぶつかり、
「覚悟ー!」
シレアが吠えた、丁度そのとき。
「ただいま」
カランコロンと扉についた古びた鐘が鳴り、すっかり見慣れた人物が姿を現す。
「シェラー!」
それを見て、リューンが歓喜の声を上げた。そして、シレアの注意がそちらに向いた一瞬の隙をついて、彼女の追随を逃れてラルフィリエルの傍まで駆け寄る。
「そんなわけでさ、シェラの方が似合うと思うんだ、絶対」
「コラー、ラルフィは仕事帰りで疲れてるんだから、お兄ちゃんが働きなさい!」
正論を突きつけられて、リューンがうっと呻き声を漏らす。大体の事情を察したラルフィリエルはくすくすと笑いながら、ピンクのエプロンを振り回して喚くシレアを宥めた。
「いいよ、手伝うから」
「……そーお? じゃ、お願いしようかな♪」
「あ、でもそのエプロンは、私もちょっと……」
言葉を濁したラルフィリエルにお構いなしに、シレアがバサリとエプロンをラルフィリエルに被せる。
「可愛い可愛い♪」
「うん、可愛いよ」
シレアとリューンに拍手を送られ、フリルだらけのエプロンをまとったラルフィリエルはしばし戸惑っていたが、
「お、似合うじゃん」
ふいに後ろからかかった声にまともに赤面した。入ってきたのは言わずとしれたエスティである。
そんなラルフィリエルの様子にシレアが真っ先に笑い声をあげ、リューンもくすくすと笑った。2人に笑われ、ラルフィリエルは憮然としたが、すぐにそれも笑みへと転じる。大好きな人達の笑顔の前では、そんな表情など長く続くわけもなく――
ラルフィリエルの幸せそうな笑顔に、エスティも顔をほころばせると、いつもの言葉を口にしたのだった。
「おかえり、ラルフィリエル。」