外伝4 女神に誓う 2


 また、底抜けの青の空の向こうに、鐘の音が吸い込まれていく。
 透きとおるようなその音は、螺旋を描いて空に染み渡り、やがて青に溶けていくようだ。そんな錯覚を覚えながら、ラルフィリエルは屋根の上で空を見上げていた。
 ――この小さな家は、一応2階建てではあるが、テラスなどという洒落たものはついていない。だから、空を見るのが好きなラルフィリエルやリューンなどは、しょっちゅう屋根裏から屋根に登っている。2人がそんな感じなので、エスティやシレアなどもよく彼らについて一緒に青空や星空を眺める。
 だから、家の中に見当たらないからといって外出した気配もないラルフィリエルを探すことなど、エスティにとっては非常に容易なことだ。
「ラルフィリエル」
 屋根の上に佇むラルフィリエルの姿を真紅の瞳に留めて、エスティが名を呼ぶ。振り向いたラルフィリエルの亜麻色の髪、オーシャングリーンの瞳、どこまでもただ青い空、その全てが眩しくて、エスティは双眸を細めた。
 丁度、戦争のような昼のピークが終わったところで、台所ではまだリューンが後片付けをしている。その横で、シレアは机に突っ伏してぐったりしていることだろう。
「エスティ――」
 応えて、詠うようにラルフィリエルも彼の名を呼んだ。虚ろに空を見ていた彼女の瞳が、隣に腰を下ろすエスティの姿をとらえると、彼女もまた彼に倣って、屋根の上に腰を下ろした。
「結婚式――、また、やってるな」
 ラルフィリエルが、独り言のようにつぶやく。今月に入ってからは、1日に2回、3回と式が行われるのも珍しくない。だからそんなことよりも、ラルフィリエルが結婚式に興味を示していることの方がエスティには意外で、同時に何故かどぎまぎした。
「……気になるのか?」
 動揺を隠しながら聞いてみると、ラルフィリエルが思い切り動揺した顔でこちらを見返してきた。
「あ、や、……その」
 ラルフィリエルのその表情にうっすらと朱がさしているのを見て、今度こそエスティはもろに動揺してしまった。隠す余裕もなく、意味のわからない言葉をもぞもぞと口にすると、ラルフィリエルもまた気まずそうに視線を空へと戻した。
「……いや。ただ、最近毎日やってるから。……なんで、みんな結婚するんだろうって、気になっただけだ」
「そりゃ、去年アルフェスとミラが結婚した月だからだろ?」
 遅れて問いに答えて来たラルフィリエルに対して、エスティもまた答えを返す。気恥ずかしさを隠すように、通りに目をやりながら、その言葉はややぶっきらぼうだった。だがそれを気にするでもなく、ラルフィリエルはかぶりを振った。
「そうじゃなくて。何の意味があるんだろうって」
 ラルフィリエルは、今度は真っ直ぐ教会の方を――鐘の音が聞こえる方を向いた。さほど高さがあるわけでもないこの食堂の屋根の上からでも、教会の鐘は見える。
「……王国が戸籍を管理する為……かな」
 シレアが聞いたら、激怒は必至であろうくらいに、淡々とした答えをエスティが口にする。だが、ラルフィリエルは同感とばかりに深く頷いたのだった。
「私も……そう思っていた。だけど……」
 そのときには、彼女の瞳は何も捉えてはいなかった。ただ、まっすぐ遠くの空を映すばかりの、恐ろしいくらい澄んだオーシャングリーンの瞳。
「だけど、それだけの筈なのに、皆……幸せそうだ。とても」
 だけど、その横顔に、その瞳に、微かに過ぎるのは羨望だと――、気付いてエスティはその細い肩を抱き寄せた。

「……結婚、するか?」

 青い空と、駆け抜ける風の間に、そんな呟きがおちる。
 まるで時間が止まったかのような空白の後に――
 遠くを見ていたラルフィリエルの瞳がこちらを向いたかと思うと、みるみるうちに大きく見開かれ、驚愕に近い表情を模った。その頃には、エスティは自分が何か物凄いことを言ってしまった気がして、思わず彼女の肩に回した手を離してしまった。
「……え?」
 形容しがたい表情で、ラルフィリエルがかすれ声を漏らす。
「あ、いや……」
 そんな中で、エスティはとにかく冷静になるように努めたが、恐ろしく困難な作業だった。思えば、当たり前のように彼女を傍に置いているし、彼女も傍にいてくれているが、ラルフィリエルの気持ちを確認したことなどなかった気がする。
 真っ赤になっているのが自分で解った。とてつもなく顔が熱く、恥ずかしさに、頭を抱えそうになったのだが――、ラルフィリエルの瞳が不安そうに翳るのが見えて、慌ててエスティは顔を上げた。このままではタチの悪い冗談になってしまう。それだけは、彼にとってどうあっても避けねばならないことであった。
「えっと、もちろんお前が嫌じゃなければだけどな、」
 言葉を繋ごうとするのだが、すぐにそれも途絶えてしまう。自分でも何が言いたいのか解らなくなってしどろもどろになるエスティに、ラルフィリエルもまた混乱しているも同然だった。だけど、ラルフィリエルもまた、一言だけ言葉を紡いだのだった。
「なんの、ために……?」
 それは取り様にとっては消極的かつ否定的な言葉だったが、そうではなかった。ただ真っ直ぐでひたむきな問いに、ようやくエスティは冷静になれた。
「わかんねぇ。けど、お前が、幸せそうに見える人たちのように、お前を幸せにしたいから……かな。多分。だから、お前がそう言うのを聞いて、今そう思った」
「……エス」
 か細く呟いた彼女の体を、もう一度抱きしめる。
 同じ様に、あのときラティンステルで彼女の手を引いて抱きしめた、あのときから、きっと想いは何も変わらない。

「なんのためと聞かれれば、きっとオレのためだ。お前が笑うのを見たい。傍で見ていたい。だから、消せなかった。オレのものにしたかった。そんな自分勝手な理由だけど」

 どうして消さなかったのか、そう彼女は何度も問うた。
 だけど何度でもはぐらかした。それはあまりに勝手すぎる理由だったから。

(――それでも、オレにとっては世界と同じくらい、大事な理由だった)

 誰に責められても。

 腕の中で、少女が涙を流しているのが、腕に落ちる雫で知れる。彼女もまた、自分の想いに気付いてしまえば、身を引き裂かれる思いだった。だけど。
「――嬉しい。でも、それを認めれば、罪に耐え切れなくなりそうで――でも、今はそれすら忘れそうなほど幸せ――。だけど、だから、もう裁かれてもいい。人をあまた、殺めたものが幸せになる罪で死を与えられるならそれでもいい」
「おいおい、物騒なこと言うなよ。それじゃオレが困る」
 エスティは苦笑すると、涙でぐしゃぐしゃになったラルフィリエルの頬を撫でた。
「……でも」
 しゃくりあげながら、子供のようにラルフィリエルが続ける。
「さすがに、この地で、この民に祝福されるわけにはいかない。私は」
「――なら、今夜教会に行こう」
 思いがけないエスティの言葉に、ラルフィリエルが目をぱちくりさせる。
「さすがにそこは、お前の気持ちも解らなくないからさ。ならせめて真似事だけでも、してみようぜ? きっとお前なら祝福してくれるさ、愛の女神様(ラルフィリエル)は、さ」
 ぽかん、としたままのラルフィリエルに、エスティは悪戯っぽい笑みを見せた。