外伝3 暁に消える 5


 複雑な魔力干渉。鳥肌が立つような威圧。
 シレアを後ろ手に庇ってエスティはユーヴィルを睨みつけた。
「エス?」
「エインシェンティアだ」
 疑問の声をあげるシレアに、エスティは鋭く、短く答えた。シレアが息を飲んだのが空気で伝わる。
 聖戦の後もエスティはエインシェンティアを探し、消去する旅を、リューンと共に続けていた。だがこのような強力なものを見たのは聖戦以来だ。
「あの子、依(よりしろ)ってこと?」
「……いや……、」
 曖昧に否定して言葉を止める。
 (完全な依なら、ここまでの魔力干渉を感じることはない。だけど、セレシアのときともラルフィともリューンとも違う感じだ。なんらかの形でエインシェンティアに関わっているのは確かだが……)
 その考えも、確たる理由に基づいたものではない。言わば、今までの経験、勘とでもいうものだろうか。だが、間違いないということには自信があった。
 そして、ラルフィが倒れた理由についても、少女の一言で理解する。
「――ラルフィのことを知っているのか」
「ラルフィ……? カオスロードのことかしら」
 シレアの言うように、少女は幼いにも関わらず、やけにしっかりして大人びた口調だ。そのアンバランスさは異様でもある。
 こちらに歩み寄ろうとして――だがユーヴィルは、回廊にある大きな嵌めこみ式の窓の横で、ふと足を止めた。その窓を見たとき、表情に乏しかった彼女の顔に、初めて感情らしきものが宿る。
「……?」
 エスティは外に何かあるのかと、横目で窓の外を見たが、風に揺らぐ木々の向こうに、夜の闇の中でも尚煌々と明るい城下の街並みが見えるだけだ。ユーヴィルに視線を戻すと、彼女は既に窓の方は見ておらず、自分の長い髪を手にとってしげしげと眺めていた。
 だがそれもすぐにやめる。
 ユーヴィルもまた、こちらに視線を戻した。
 
「あなたに、会いたかった……エスティ」

 もうその表情に感情はなかったが、真紅の瞳から、つぅ、と一筋涙が伝うのが、見えた――

 「エスティ!」
 その意外な言葉と涙に、エスティもシレアも動けないまま――どれだけの時間が過ぎたのかはわからない。多分、実際には数秒だったのだろう。
 唐突に、ユーヴィルとは逆方向から名を呼ばれて、反射的にエスティは振り返った。
「ミラ」
 声で知れたが、シレアもまた振り返り、その名を呼ぶ。
 もう一度振り返ったときには、ユーヴィルの姿はもう消えていた。
 そのことにシレアも気付き、2人は顔を見合わせると小さく息を吐いた。


 ミルディンが遠慮がちに扉をノックすると、すぐにリューンが出迎える。彼女の姿を見て、少し驚いたように彼は目を丸くした。
「ミラ。いいの? こんなところにいて」
「うん、もう夜遅いし……休むように言われたけれど、部屋抜け出してきちゃった。ラルフィが倒れたって聞いたから、気になって」
 抜け出してきちゃった、などとさらりとのたまう彼女は相変わらずで、リューンが苦笑する。言葉通り、本来なら休んでいるべきであろう彼女は、寝間着であろう簡素な服に身を包んだだけの王妃とは思えぬ出で立ちだ。
 ともあれ部屋に響いた彼女の声に、横たわっていたラルフィリエルは慌てて身を起こした。
「……姫。こんな時間にこのようなところにいては」
「大丈夫よ。"陛下"の了承を得てるもの」
 にっこりと笑って、ミルディンが回廊の方を振り仰ぐ。程なくしてその向こうに人影が見えるが、それが2つであることに気付くとミルディンは「あ」、と小さく声を落として、罰の悪そうな表情をした。
「なんて格好で出歩いているんですか。姫」
 呆れた声は誰も聞き覚えのある女性のもの。
 月明かりに、映し出されたライラックの瞳は「やれやれ」とでも言いたげだ。
 その隣で、頭を抑えながらアルフェスが溜め息を付いていた。
 「すみません。見つかってしまいました」
 どうやら2人はエレフォの目を掻い潜って抜け出してきたようだ。
「もう……。だから注意してねって言ったのに」
「姫と違って抜け出すことには慣れていないんです」
 開き直りだろうか、アルフェスが半眼で呻く。そんな彼をエレフォは一瞥しただけで黙らせた。――王となっても彼女との力関係は逆転していないようだ。
「お前がそんなんでは、私の苦労が増えるばかりだ。――で、どうだ、ラルフィリエル。体は大丈夫なのか」
 アルフェスに向かって悪態を付くものの、エレフォはエレフォでラルフィリエルを気にかけていたらしく、彼女の安否を気遣う。
 王に王妃に、前親衛隊長というそうそうたるメンバーがいきなり一堂に会して、しばしラルフィリエルは目を白黒させていたが、すぐに状況を思い出して彼女は俯いた。
「……もうここには居られない」
「……ラルフィリエル?」
 床に視線を落とした彼女を、ミルディンが屈みこんで覗き込む。
 「あの少女は、私のことを知っていた。――私の、経歴を」
 少しずつ零れる彼女の言葉に、だがミルディンが疑問符を顔全体に浮かべる。
「少女? 経歴って……」
 だが少女というのはわからないとしても、経歴、という言葉が何を指しているかは、ミルディンにはすぐに知れた。はっとして、思わずエレフォの方を振り仰ぐ。
 ラルフィリエルがここに居られないという、知られたくない彼女の経歴といえばひとつ――、だがこの城でそれを知っているのは、ミルディンとアルフェスだけだ。
 エレフォはリューンの妹、としてしかラルフィリエルを知らない筈だった。
「どういうことですか、姫」
 ミルディンが何か思い当たったということを表情で悟ったのだろう。厳しい視線で問いかけるエレフォに、ミルディンは思わず目を逸らしてしまう。だが彼女が何か言うまでもなく、ラルフィリエルがその言葉を口にしていた。――忌まわしい2つ名を。
「カオスロード、と。彼女は私を見てそう言ったんだ」
 普段、ほとんどのことには動じないエレフォも、さすがにその瞬間は表情が変わった。
 だがラルフィリエルは気にせず立ち上がると、もう一度繰り返す。

「私は、セルティの≪混沌を統べるもの≫――カオスロード、ラルフィリエルだ」
 
 それはまるで、改めて自分に言い聞かせているかのようだった。