外伝3 暁に消える 4


 少女には幾つもの呼び名があった。

 カオスロード。

 セルティの無敗将軍。

 ラルフィリエル・E・レオナリア。

 ラルフィという愛称。

 女神。

 シェオリオ・A・リージア。

 シェラという愛称。

 皇帝ガルヴァリエルの妹。

 神、ガルヴァリエルの妹。

 リュカルド・S・リージアの妹。

 シレア・R・ヴェルニッシの義妹。

 エスティ・フィストの――宿敵。

 銀髪に紫の瞳と、フラックスにオーシャングリーンの瞳と、

(ああ――もうやめて)

 少女はもがく。
 様々な自分の呼称が、ぐるぐると脳裏を渦巻く。
 様々な呼称で自分を呼んでは、消えていく。
 脳味噌を掻き回されているようだった。
 心を引き裂かれるようだった。
 何が本当の自分なのか、どれが本当の姿なのか、自分がなんかのか。
 もう既に解らなくなっていたのかもしれない。
 だから結局のところ、全てに背を向けて――
 少女には軍事大国の親衛隊長という新たな呼称がついた。

(逃げ出した、だけだった?)

 吐き気がして、だが少しだけ少女はほっとする。
 こうして苦しんでいる限り、自分が生きた価値があった気がする。
 死は安息。幸福もまた安息だ。それは許されないだろう。
 だがこうして苦しんでいる限り――
 ほんの少しだけ、許される気がする。

(ダメ、許されては駄目……)
 
 ぎゅ、と少女はきつく頭を抱え込んだ。
 何かから逃げるように。
 ――答えを模索することにはもう疲れた。
 

「貴女、カオスロードね?」


 様々な声の中で、ひときわ強く幼女の声が響く。
 少女はまた、自分の体を抱きしめて縮こまる。

 もう――やめて。

 声にならに悲鳴を挙げる。
 声にならなかった筈なのに、だけどどこか遠くで自分の叫び声が聞こえて――ラルフィリエルは目を醒ました。


「ラルフィ!」
「シェラ!!」
   呻き声と共に、ゆっくりと開かれた鮮やかな翠の瞳に、勢いこんで2種類の声が彼女を呼んだ。
 まだよく焦点の定まらない目で辺りを見回す。壁や天井、ぼやけて映る調度品で、ランドエバー城内だと判断するには充分事足りた。だが自分を呼んだその声の主が誰かを理解するのはもっと容易で――涙が溢れる。
「お兄ちゃんッ――!!!」
 叫び、毛布を跳ね除けて飛びついてくるラルフィリエルを、リューンが受け止める。
「ラルフィ、何が――」
 問いかけて、エスティは言葉を切った。リューンの胸の中で泣きじゃくっている彼女から今話を聞くのは、無理そうだ。
 リューンもまた、開きかけた口を閉じると、黙ってただラルフィリエルを抱きしめた。
「――リューン、あと、頼む」
 リューンが頷くのを見て、シレアを伴ってエスティが部屋を出る。
 その、ドアが閉まる音に、ラルフィリエルの身体が僅かに震えたのに気付いて、リューンは哀しそうに笑った。
「……本当は、傍にいて欲しかったんでしょ? シェラ」
 腕の中の少女は答えないが、彼に返事など必要はない。
「大丈夫……そんなに怖がらなくても。エスは、きっと……」
 彼女が怯えているのは、きっと背を向けられること。それは以前までの自分を見ているようで、だからその痛みも手にとるように解る。
 だが、だからいつか、彼女もその痛みから解放されると信じることもできる。
「裏切られることは信頼を引き裂くことではないよ、シェラ」
 妹の髪を優しく撫でて、その耳元でリューンが囁く。
 胸に顔を埋めていたラルフィリエルがほんの少し顔を上げて、そこに見えたオーシャングリーンの瞳からは、問いかけるような色が見えた。わからない、ということだろうか。
 リューンは微笑んだ。
「大丈夫」
 
 ――だから、痛みに溺れないで――

「一体何があったんだ」
 静かに部屋の扉を閉めると、開口一番エスティはシレアに問いかけた。
「あたしにも、よく――ただ、女の子と話してるのは、見た」
「女の子?」
 シレアの言葉の端を拾って反芻するエスティに、ためらいながら頷きを返す。
「小さい子だった。10歳くらい……もっと下かな。でも、なんだか落ち着いてて、大人びてて……誰、って聞いたら、消えちゃったの」
「はぁ? 消えた?」
 エスティが怪訝な顔をするが、事実なのでシレアも頷くしかない。だが、エスティが考え込むと、今度はシレアが彼に対して問いかける。
「ねぇ……今まで気にしたことなかったんだけど。エスティってどこの国の人なの?」
「は?」
 その問いは、エスティにとってはあまりにも唐突で、思わず彼はまじまじとシレアの顔を見た。だがその表情がいつになく神妙だったので、多少いぶかしみながらも答える。
「……フェテスって国の端っこのド田舎だけど。とっくに滅んだぜ? ラティンステル大陸だし」
 広大な大陸であるラティンステルには多数の国家があったが、セルティ帝国が先の戦乱に参入してすぐ、ラティンステル大陸はセルティに掌握された。その為、その国々の全てが今は無く、エスティが口にしたその国にシレアは聞き覚えがなかったが、それも無理もないことだと言える。
「なんで今更そんなこと聞くんだ?」
 率直に尋ねる。シレアは少し考える素振りを見せたが、エスティが苛立ちを表し始める少し前には口を開いた。
「その子、エスと同じ髪と目の色をしてたから。……黒髪に、赤目」
「なんだって?」
 シレアの言葉にエスティは身を乗り出した。そんな彼に、シレアが言いにくそうに言葉を継ぐ。
「もしかして、エスの妹?」
 シレアの声には冗談もからかいの色も含まれてはいなかったが、エスティは身を乗り出したままバランスを崩しそうになった。
「そんな馬鹿な。リューンじゃあるまいし……。オレの母親はオレを生んでスグ死んだよ。妹も弟もいる訳がない」
「そう。一人っ子だからこんな野放図に育ったのね」
 神妙な顔のままサラリと言ったシレアの言葉には何か釈然としないものを感じたが、とりあえずスルーする。
「……まあ、何だ。別に黒髪はラティンステルじゃ珍しくないよ。リューンもラティンステルの出身らしいが、アイツの髪の色の方が珍しいくらいだ。でも、赤目か……それは、オレもオレ以外には知らんな」
「家族は?」
 目の色も髪の色も、当然ながら遺伝するものだ。素朴な疑問をシレアが口にすると、
「母親譲りらしいけど、母さんのことなんかオレなんにも知らねーもん」
 あっけらかんと彼はそう返した。
 聞いてはまずいことだったのかと一瞬思ったが、謝るにはあまりにその口調がサバサバしていて謝りそこねた。
 シレアも両親とは死に別れたが、母親のことを思い出すと未だに辛いし、涙が出そうになることもある。だから母のことなど何も知らない、とあっさりというエスティには少し驚いた。だが生まれてすぐに死んだというならそれも仕方ないことなのかもしれない。
 シレアとて、記憶を無くしていたその間は、少なくとも両親の記憶で苦しむことは無かった筈なのだから。
(思い出って、あってもなくても苦しいものね)
 ふとそんなことを考えてしまって、シレアは小さく頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。エスティを見上げると、だが彼はそんなシレアの挙動など、意に介してはいないようだった。
「ま、それでもラティンステル大陸には、いろんな人種が混在してるし。オレと同じ髪と目の色のヤツがいても不思議じゃないさ。それより、消えたっつーのは気になるな……それに、ラルフィに何をしたのか」
「うん……何かを言ったみたいだったけど。あ、それとあたし、その子の名前聞いたわ。えっと確か……ユーヴィル。ユーヴィル・S……」
 なんだっけ、とそこでシレアが口ごもる。
 だが答えはすぐに出た。だがそれはシレアの口からではなく、全く意外なところから突然に。
 
「セレスト。ユーヴィル・S・セレストよ。彼女には、カオスロードと呼んだだけよ。何もしていないわ」

 ――忘れようのない嫌な気配が、エスティの肌を撫でる。
 咄嗟に声の方を振り仰ぐと、回廊の向こうに、黒髪赤目の少女が佇んでいた。