外伝3 暁に消える 13


 緑なす草原を風が撫でてゆく。広大なセルティ・ステップに降り立って、ラルフィリエルはゆっくりと翠の双眸を開いた。その色は、澄んだ海の色であって同時に、この草原の緑ともよく似ている。
 そしてその瞳は、やがて燃えるような真紅の瞳と、対照的に静かな漆黒の黒髪を持つ少女を捉えた。
(いつだって、始まりはこの地だ)
 真っ直ぐに、少女――ユーヴィルと対峙しながらラルフィリエルは独白した。
 かつて、人が文明を築いたのもこのラティンステル大陸だという。
 だが、歴史などという壮大なスケールを持ち出さずとも、ラルフィリエルが生まれたのはこの地だったから、はじまりの地と呼ぶにはそれで充分だった。
 だからこの地に立つだけで、不思議な感慨に取りつかれるのだ。そして、驚くほど心が穏やかになる。
 果てしない憎悪を向けられる、今この瞬間でさえ。
「待っていたわ。カオスロード」
 ユーヴィルの持つ真紅の瞳は、エスティのそれと同じ色をしていた。だがそこに宿る感情は彼とは全く真逆のものだ。
 だがむしろラルフィリエルにはその方が落ち着いた。ユーヴィルが自分に向けるその感情こそが、自分が受けて然るべきものだと思うから。
「私を――呼んだのだな」
 渦巻く憎悪にも殺気にも怯まず、静かにラルフィリエルが語りかける。
 ユーヴィルは、瞳を見開くと口の端を持ち上げた。笑んだだのだろう。だが、ぞっとするような笑みだ。
「ええ。私は貴方が許せないの。カオスロード。皇帝の人形として、殺し、壊した貴方が、のうのうと生きていることが。貴方を必要とする人に、愛されて生きていることが。だから貴方を消してやりたい」
 喉の奥から絞り出すような声には、憎悪や殺意などよりも、色濃く滲み出る感情があった。それに気付いて、ラルフィリエルは柳眉を潜めた。
「――だけど、お前自身も消えることを望んでいる。エスに、消滅を求めている。そうだろう――? その髪と瞳は」
「そうよ、私のものじゃない。ユーヴィル・S・セレストなんていう女はね、とっくに死んだわ。だけど私の中に残る力は消滅しきれず、私は時空の狭間を漂っていた。生きても死んでもいない、意識だけの存在で、数年間もね。堪らなく苦痛だった。だけどあの人を見つけたわ」
 ユーヴィルの言う"あの人"というのが誰を指すか、理解するのは容易だった。それは力を持ち、それを厭う者にとって、求めてやまない存在。救世主などと呼べば、彼の存在を陳腐にしてしまいそうで――少なくともラルフィリエルはそう思っているが、だが力あるものが彼をそう呼ばしめるのも、肯けることではあった。
 消去呪(デリートスペル)
 古代の歪んだ力を無に帰すそれを操る少年――エスティ。
 その存在を知ったとき、ラルフィリエルもまた、自らの消滅を願って彼を呼んだ。
「彼なら――エスティなら、力ごとわたしの存在を消去してくれると思った。どうにかして彼と接触しようとしているうちに、貴方の存在もまた知ることになったわ。そのときの私の気持ちが、解るかしら」
 言葉自体は淡々としていたが、口調は徐々に熱を帯びてきていた。衝動に任せるようにユーヴィルが一歩、ラルフィリエルに詰め寄る。
「ラルフィリエル・E・レオナリア、そう呼ばれたのは貴方だけじゃないわ。私もまた、ガルヴァリエルにそう呼ばれたことがある。でも私はラルフィリエルにはならなかったわ。何故だか解る? その力が、破壊と殺戮しか生まないと解っていたからよ。制御できなかったんじゃない、しなかったの。例えそれが私に死をもたらし、拒否しきれなかった力が私を支配しても」
「……いや、制御しなかったんじゃない、できなかったんだ。そうでなければ、どんな形であれガルヴァリエルが易々と手放す筈はなかった。例えどれほど拒否しても」
 口にすれば未だ蘇る戦慄と共にその名を吐くと、ユーヴィルは髪の毛を逆立てそうなぐらいの怒気をまとって、こちらへ一気に距離を詰めてきた。目には見えない力の奔流を受けて、ラルフィリエルが顔をしかめる。
 それを見るユーヴィルの表情もまた、激しい怒りと憎悪に歪んでいた。
「違う、貴方は逃げただけよ。それで、皇帝の言いなりに多くの人を殺した。それなのに、幸せに生きている貴方が許せない!! 私は何もかも失ったのに、同じ目にあって、多くの罪を犯した貴方が、何故何もかも手に入れているの!? 貴方を見た瞬間、拒否し続けていた力を私は受け入れられたわ。片鱗としてしか残ってなくても、これくらいの体なら具現を維持できる」
 いつしか叫びに変わっていたその声と同時に、ユーヴィルは成熟しきっていない小さな手を、ラルフィリエルの首もとに伸ばした。その指先は触れるか否かで止まっているのに、凄まじい力で首が締め付けられ、ラルフィリエルが苦悶の呻き声をもらす。
「かつてガルヴァリエルに選ばれた力、侮らないことね。貴方を殺す為だけに、受け入れた力よ。光栄に思って、私と一緒に消えなさい」
 何かを言い返すことも、力を振り払うこともできずに、あっという間にラルフィリエルの意識は混濁した。
 しようと思えば、きっとどちらもできた。
 できなかったのは、彼女の言葉の全てを否定しきれなかったからだ――

(――でも――)

 視界がフェードアウトする。その闇の向こうにあるのは血塗られた記憶だ。
 だけど、そのさらに向こうで声が聞こえた。

「――ラルフィリエル!!」

 それは少女の本名ではなく、ラルフィリエルはその名が好きではなかった。
 だけど、その名を呼ぶのが彼だから、その名も自分も嫌うことはできなかった。