外伝2 蒼天に契る 4


 顔を上げれば視界いっぱいに広がる空は、雲ひとつないとまではいかなくてもよく晴れており、その青は嫌が応にもとある人物を彼に思いださせた。
 青空と同じ色の瞳を持つ少女の笑顔が脳裏を過ぎる。
 思い出を拾えば泣き顔の方が多くても、思い描く記憶の中で彼女はいつでも微笑んでいる――それほど、彼女の笑顔は眩しく、そして鮮烈に頭に残っているから。彼女が微笑むその為だけに、人生の全てを懸けてもいいと思えるほどに。
 それでも彼を動かすのはそんな激情ではない――少なくとも、そうであってはいけない。
 ただ自らに課した使命と、強い責任感と、そしてたったひとつの約束の為。
 結果的に前者と後者は同じなのかもしれないけれど、それでも彼にとっては区別すべきものだった。
 想いを馳せれば愛おしく、だから彼は回想を止める。
 その気持ちを認めてはいても、やはりそれは許されないと思うから。
 上から前へと視線を戻し、再び歩き出す。土地勘はないが、丁寧に道を教えてくれたセレシアのお蔭で迷うことはなかった。扉を押して、目当ての店に入る。
 扉と言っても、単に屋外と屋内を仕切るにすぎないそれは、手を離してもしばらく反動で揺れ続けて、屋内にキィキィという音を響かせ続ける。
 酒場であるそこは、夕方という時間帯のせいもあって混雑していた――その喧騒を縫ってカウンターに近づくと、果たしてそ向こうで見知った顔の少女がこちらを見止めて顔を上げる。
 だが彼女に声をかけることは叶わなかった。
 「おにいさん、見かけない顔ね?」
 艶やかな声と腕に絡められた白い手に動きを止められる。
 振り返ると、ゆるやかに波打つ金髪の少女がこちらを見てにこりと微笑った。なかなかの美人だ。だがアルフェスの目を引いたのはむしろ、その金髪とこちらを覗きこむ青い瞳だった。
 (ランドエバー人……か?)
 その容姿にそんな事を思う。だが酒場の人ごみを見るに、金髪も珍しくない。
 そもそもレアノルトも元はランドエバー領だったのだから当然といえば当然なのだが――
 「ねぇ、おにぃさんもランドエバー人でしょ? 同郷どうし、故郷に乾杯しましょ?」
 しなだれかかる彼女が、だがテーブルではなくカウンターでもなく、さらに奥の部屋を示すのに、彼女が本当に言葉どおりの行動を誘っているのではないことくらいはアルフェスにも解った。
 「いや、僕は――」
 「"ぼく"?」
 さりげなく体を離した彼を逃すまいと、金髪の美女はさらに両腕を絡めてクスリと笑う。

 「おにぃさん、見かけによらず可愛い喋り方するのね?」

 聞き覚えのある――それもごく最近――言葉と意味ありげな彼女の笑いに。
 その仕草のさらに奥にある彼女の真意を悟って、アルフェスは鋭い瞳を緩めた。
 「――そうだな。故郷を語って夜を明かすのも悪くない」
 つい今しがたさりげなく彼女の誘惑をかわしたのと同じ様に、またもさり気無い仕草で肩を抱かれて、思わず女がびくりと体を固くする。
 「……おにぃさん、固そうなのに。見かけによらずやり手なのね」
 「見かけによらずはお互い様だ」
 浅く溜め息をつきながら、囁いた彼女にアルフェスもまた小声で返した。
 色香の漂う表情は、だがいまやうっすらと紅潮し、緊張気味に歩き出した彼女は先ほど声をかけてきたときとは別人のようだ。こういうことには慣れていないのだとすぐに解る。
 「今はあまり怪しまれたくないんだ。慣れてなくても努力くらいはするさ」
 非難したわけでもないのに弁明のような言葉を吐いた彼に、女は小さく吹き出した。


 「誘うような真似してごめんね。一応、ブレイズベルク兵の監視があるもんだから」
 部屋に入ると、開口一番彼女も弁明のような言葉を口にした。
 「私、フィセア・ハールミット。リアの双子の妹よ」
 「双子? リアと?」
 絡めた腕を放さないままでニコニコと女が名乗る。
 さっきの言葉でリアの――つまるところレジスタンスの関係者だろうということは察しがついたが、まさか妹、それも双子だとは思いもしなかった。
 髪や目の色ひとつとってもまるで違うし、顔もまったく似ていない。少年のようなリアとは対照的なフィセアの顔を思わずまじまじと眺めてそう言うと、彼女はカラカラと笑った。
 「二卵性。リアはパパ似で私はママ似なんだ。しかもパパはスティン人、ママはランドエバー人」
 だがふいに、フィセアは「あっ」と小さく叫んだ。
 「もうひとつごめん。そういうわけで同郷ってのも嘘。あたしは生まれも育ちもこのレアノルト」
 急に笑みをおさめた彼女に何事かと身構えたアルフェスだったが、フィセアがそんなことを言うのに逆に笑ってしまう。
 「別に、気にしてないよ。謝るのは僕の方だ――馴れ馴れしい真似をして」
 肩を抱かれたことを思い出し、フィセアはまたもうっすら頬を赤らめた。
 「んーん、おにいさんくらいカッコイイ人だったら得したってカンジ?」
 「なーにが得しただ、フィア。呑気なこと言ってる場合か」
 もじもじとそういうフィセアの言葉を呆れた声が一刀両断する。
 振り向くと、後ろの扉から先刻カウンターに立っていた筈のリアが半眼でこちらを――正確にはフィセアを見ていた。
 「なんだ、もう来たの、リア」
 いかにも邪魔、という目でフィセアがリアを振り仰ぐと、リアはずかずかと大股でこちらに歩み寄ってきた。そして、未だにアルフェスにくっついているフィセアの手をわっしと掴んで引き剥がす。
 「アルフェス、とりあえず来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
 ぶーぶーと文句をたれながら暴れる妹をおさえつけ、リア。だが、アルフェスの表情は曖昧だった。
 「いや……、一応王宮騎士という立場上、僕個人の判断で国にかかわる争いごとに首をつっこむわけにはいかないんだ」
 2年経った今も籍があるのかどうかは判りかねたが、それでも一度は総近衛隊長という重責を負った身だ。迂闊な行動は避けるべきだろう――ランドエバー王家の名に傷をつけることだけはどうあっても避けねばならない。それは、忠誠という綺麗な言葉だけではないのだが――
 「ああ、判ってるよ。だけどあんたもこんなところで燻ってるわけにいかないだろ? この厳戒態勢の中、1人で強行突破しようとするならその方が余程迂闊だよね、"ランドエバーの守護神"さん?」
 挑発的な笑みを浮かべてそう言うリアの言葉は、だがまさしく正論で、アルフェスもふっと笑みを漏らした。
 「確かに君の言うとおりだ」
 「そう思うなら、あたし達に協力してよ。ランドエバーには迷惑かけないようにする。約束するから――」
 一転してリアの表情には焦燥が浮かんだ。
 どこか真剣さに欠けるフィセアでさえ、見れば神妙な表情をしている。
 別の気配の闖入に気付いたのは、そんな緊張した空気が流れたそのときだった。
 「あんたがあのアルフェス・レーシェルか」
 リアが入ってきた扉から姿を現したのは、リアと同じ髪と瞳の色をした、大柄な男だった。
 「私はガルス・ハールミット。レジスタンスのリーダーだ」
 ガルスと名乗った彼は、その姓を聞いても彼女らの父であることは明らかだったが、それにしても――とアルフェスは思う。
 長身のアルフェスを軽く越える身長と、鍛え抜かれた逞しい体に髭面。確かに髪と目は同じ色だが、リアは父親似というのは言いすぎだろう、思わずアルフェスは苦笑した。