外伝2 蒼天に契る 3


 両目を包帯に覆われながらも、慣れた手つきでお茶を淹れるセレシアのその姿は、まるで手品でも見ているようだった。だが稀に空を掻く手を誘導してやるセララの仕草も慣れたものだから、彼女はずっと目が不自由だったのだろうと憶測できる。
 だが彼女が正確にこちらにカップを差し出すのにはやはり驚嘆してしまう。
 僅かに表情に驚きが混じると、やはり彼女は見えているかのようにクスリと笑った。
 気恥ずかしくなって、差し出されたカップに視線を落とす。澄んだ琥珀色から立ち上るなんとも良い香りが鼻腔をつき、口をつけると上品な味が広がった。
 ――おかしなものだ、と思う。
 2年間も眠っていたというのに、こうして飲食物を摂取するのになんの弊害もないほど体のどこにも異変がない。足腰が弱っているわけでもなければ、痩せ細ったわけでもない。  まるで自分の体だけ時が止まっていたようだ。もちろん2年も眠っていたという実感もありはしないのだから。
 たしかどこぞの国にそのようなお伽噺があったな、などと思う。もっともそれは2年どころではなく100年も200年も経っていたように思うが、今の世界の状況が全く把握できない分、気分はそのお伽噺の主人公だ。
「――何からお話しましょうか」
 紅茶を一口啜り、セレシアがのんびりした声を上げるのに、アルフェスは答を返せなかった。
 というより、彼にしてみても聞きたいことがありすぎて、何から聞けば良いのかわからなかったのだ――否。ひとつだけ、何にも優先して知りたいことはあった。だが知ることに僅かな恐怖があって、少しだけ躊躇われたのだが。
「……ランドエバーの、ミルディン王女は……」
「ご健勝にあられますよ」
 にっこりと笑うセレシアに、アルフェスは表情を緩ませた。
「――そうか」
 ならばもう取り急ぎ知らなければならないことなどないように思えた。体中を満たす安堵に、紅茶を飲み干して息をつく。カチャリ、と受け皿とカップが触れ合う軽い音に、セレシアはティーポットに手をかけた。
「ただ、もう王女ではありません。女王陛下にあられます」
 アルフェスの空のカップに紅茶を注ぎ、補足したセレシアの言葉は意外といえば意外であり、妙と言えば妙だった。
「王をお迎えにはならなかったのか。何故――」
 問いに答えられる筈もなくセレシアが首をかしげる。
 ランドエバー王家には姫、それも一子しか生まれぬことが非常に多い。それ故、姫が夫を迎え王と成るという昔からの通例がしきたりとなっているのだ。
 だがかつての主君に想いを馳せると、そういったしきたり云々などよりも、彼女が女王となり、その過酷な使命と戦っていることの方に気持ちの比重は傾く。
 傍で護ると約束しておきながら、2年もそれを放棄したことに気は苛まれる。
 今すぐにでも帰りたいが、2年も城を空けておきながら今更彼女や部下達に合わせる顔などないし、居場所などあるのだろうかとも思える。

 それに――

「セレシア。さっき僕が国に帰るのは無理だと言ったけれど、それはどうして?」
 自らも紅茶を飲み干したセレシアが、そのカップを静かに受け皿に戻す。
 問いを受けて、彼女は口元から笑みを消した。
「――ブレイズベルク公国をご存知ですか」
 問いを問いで返されて、だが一応頷く――話の流れからいけば唐突な問いではあったのだが。
 ブレイズベルク公国――リルステル南部に位置する小国だ。さほど有名ではないが、国名くらいは把握している。
「その、ブレイズベルクが何か関係が?」
 今度はセレシアが頷いた。だが発した言葉はまたも唐突、そして驚愕に値すべきものだった。

「戦がはじまるのですよ」

 アルフェスの、カップに伸ばしかけた手が止まる。

「リアはここをレアノルトと言ったかもしれませんが、正確にはもうここもブレイズベルク領なのです。 今リルステル大陸に存在する国は、もうブレイズベルク公国と、聖ランドエバー王国、スティン王国の3国だけ――ここも戒厳令が敷かれ、国境を越えることは容易ではありません」
 そこまで一息に喋り、だがふとセレシアが俯く。
「――あなたがランドエバーの騎士であることは身なりで想像がついたのだけれど、"ランドエバーの守護神"と知って助けたわけではないの。でも――あなたがあのアルフェス様なら、この均衡に一石を投じることができるかも知れない」
 再び顔を上げたセレシアは、意を決したように強い口調で続けた。

「私やリアは、ブレイズベルクに対するレジスタンスに組するものです。
アルフェス様――できれば。戦を止めるため、私達に協力してはくれませんか」
懇願に似た彼女の言葉に、アルフェスが言葉を失くす。
あの戦から2年過ぎて尚、戦乱の世に平和は訪れていなかった――かつての仲間達は、この事実と世界に何を思うのか、それを思えばやるせなく、騎士は鋭い瞳を伏せた。