外伝1 宵に出会う 4


(……遠く……?)
 今、遠くで、誰かが何かを言った気がする。

「お兄ちゃん!」

 鈴の音のような声に、リューンははっと目を開けた。
 視界に飛び込んできたのは――
 せせらぐ小川。
 足元の草原。
 向こうに見える集落。そして――
 揺れる、亜麻色の髪。
「シェ……ラ」
 その声は小さすぎて、彼女に届いたかどうか。
 目の前に立つ少女は―自分とよく似た面影を持つ少女は――オーシャン・グリーンの明るい瞳をキョトンとさせて自分を見上げてきた。
「どうしたの? お兄ちゃん。ぼーっとして」
「え……ああ」
 前髪をかきあげて呻く。
「俺、ぼーっとしてたか?」
「ええ。どうかした?」  クスクスと笑う彼女の顔を、じっとみつめる。
「シェオリオ……どうしてだろう。俺、久しぶりにお前を見た気がする」
「何言ってるの? お兄ちゃん。昨日も、一昨日も、そのまえも、ずーっと、一緒にいたじゃない」
 彼女は笑顔を消すと、代わりに心配そうな表情を浮かべた。その白い手が、自分の頬に 触れる。
「今日のリューンお兄ちゃん、変よ」
「ん……でも」
 長い亜麻色の髪。オーシャングリーンの瞳。にっこり微笑むその顔には、まだ美しさより幼さが先に立つけれど、あと数年もしたら誰もが振り返るような絶世の美女になるであろうことは想像に難くない。
 シェオリオ・アレアル・リージアは、明るくて気立てのよい娘だった。
 彼女が慈愛の女神の申し子だったとしても、きっと誰も驚きはしないだろう。
 彼女はいっぱいの愛を受けて、そしていつか大きな幸せを手にいれて、そしていつか自分の元を飛び立って行く。
 それは兄として、少し寂しいことではあるが、同時に兄としてなによりの幸せでもある。

 だから、それまでは――俺がずっとお前を守る。

 そう誓った。でも――
(……でも?)
 ふと顔を上げる。
 心の隅に引っかかる違和感。
 何かが違う。これは、何かが……違う。
「シェオリオ……」
 今一度その名を呼んだ。
「お前は本当に、そこにいるのか……」

 フェード・アウトする視界。
 フラッシュバックしていく記憶。
 死にたかった。
 護れなかった。救えなかった。必死にあがいても何も残らなかった。残ったのは、償いようのない罪、それだけ。
 何も叶わなかった。
 大事にしていたものが、瞳の奥で微笑う。

<誰だって誰を傷つけることも望んでないのに……どうして争いは起こるのかな?>

 純真な瞳が問いかける。

<大切なものを護りたいだけなの……でもそれが争いになる。どうしてなのかな?>

 その瞳が哀しみに翳る。

<大切なものの痛みにはいくらでも鋭くなれる……でも他の人の痛みにはいくらでも疎くなれるの>

 その瞳が閉じられる。

<失くしたくない / それだけなの>

「生きて、私を迎えに来てね」
 ――涙。

『人の心とはかくも弱い』
 涙の雫の余韻を残して、静かに少女が闇に溶けていく。
『心弱き人間よ……お前の心は誰よりも負の感情で満ちている』
 リューンは動けなかった。
 引き止めているのだ。誰かが、自分を。
 それは、妹の幻影だろうか? ――わからない。
 ただ、わかることは、

 ――このまま消えたい。

『望みどおりに』
 僅かに彼は微笑んだ。

「――ダメだ!!!」
 鮮血が吹き出す――その血は、自分のものでは、なかった。
 漆黒の長い髪と深紅の瞳を持つ少年が、ゆっくりと倒れこむ。
「……ッ!!」
 そこでやっと、リューンは我に返った。
 そして気付いた。今のが攻撃だったのだ。
 古代秘宝の守護者が、心を奪われたリューンに止めをさそうとしていたところを、少年が庇った。
「どうして……」
 反射的に崩れ落ちる彼を支える。
「ぼくなんか助けた。……ぼくは、死んだって良かった」
「そんなのは」
 傷口を押さえながら、彼はリューンの手を払おうとした。だが実際は微かに指が動いただけだ。急所は外れているが、急な失血に頭が朦朧となる。
「……お前が決めることじゃない……お前には、待ってる人がいるんだろ? なら……死んじゃダメだ」
 かすれた声でそれだけ言い切ると、彼の体から力が抜けた。
「……! しっかり……」
 動かなくなった彼に声をかけるが、殺気にリューンは言葉を止めた。
 戦いは続いている。終わっていない――
「古代秘宝を護る守護者――お前の主はもう滅んだんだ。だから、もういいでしょ? もう、誰も傷つけなくても」
『否。主の命令は永遠にして絶対』
「……彼を傷つけるのは許さない」
 膨らむ殺気に、リューンは身構えた。その見据える先には一頭の黒い獣がいる。
 様々な猛獣を寄せ集めたそれは、合成獣(キメラ)とでも言うのか。
『我の精神空間でお前は心を奪われて死ぬ』
 獣の言葉と共に、当たりの空間が闇に沈む。
『この空間には精霊さえ存在しない。我が勝つ』
「そうかな」
 左手で少年を抱えながら、リューンは右手を翳した。
「精神世界が十八番なのは君だけじゃないよ?」
『な……に!?』
 彼を包み込む力の招待に気付いてか、獣の声に焦燥がにじむ。
 とびかかってくる黒き獣に、リューンはいっそ笑って言った。
「遅いよ」
 力が満ちる。この精神世界では、マインドソーサルの力こそが物理的な力。

精神破壊(ソウル・クラッシュ)!!!』

 凛とした声と共に、獣をまきこんで空間に亀裂が走り、割れて飛び散る。
 この小さな世界が引き裂かれる――。