4.
翌日も、シレアは孤児院を訪れた。分厚い黒雲はすっかりランドエバーに腰を降ろして、動くことを放棄してしまった様であったが、シレアにとってそんなことは何の弊害にもならない。元より彼女は、雨が嫌いではないのだ。
昨日孤児院を訪れたときは道を尋ねながらの慣れない道のりであったが、一度通った道を戸惑う程に見知らぬ街ではない。この雨を出歩く人など珍しいので、道を尋ねる方が苦労するというものである。
ともあれ、昨日そうしたように今日も孤児院の古い扉を押し開ける。キイ、と蝶番が錆びれた音を立てて来客を告げると、出迎えたのは昨日と同じ男だった。
「また君か」
昨日既に気付いたことだが、シレアが最初にライドリックと出会ったときに彼を迎えにきた男だ。そのときにはレインコートに包まれて顔もろくにうかがえなかったが、声と雰囲気で容易に解った。顔が見えたところでどうという特徴のない男である。
「ライドリックに会いに来たなら、これを持って迎えにいくんだな」
シレアが何か言葉を告げる前に、男は抑揚のない声でそう言うと、腰に下げてある鍵束からひとつの鍵を外した。
「……これ、何」
昨日は無かったやりとりにシレアが不審な顔で見上げると、男はさも面倒そうな表情を隠さずに答えた。
「昨日暴れたから、別室に隔離しているんだ。同じ部屋の子供が怯えるし、物を壊される」
「暴れる?」
「たまに衝動的な発作を起こすことがあるんだ。呻いて、物を投げたりする」
それ以上の問答を拒むように男は踵を返したが、シレアはさらに問いを重ねた。
「呻くって、じゃあ声は出るの? もしかしたらその勢いで喋れるかもしれないじゃない。あの子は、きっと辛くて、冷たくて、寂しいだけ。ここの人たちは、どうして向き合ってあげようとしないの?」
無視されるかもしれないことを覚悟の上での発言だったが、存外男は顔だけではあるがこちらを向いた。だがそこにある表情は、無視する以上に冷淡なものだった。
「では君は蝶番が軋むたびに、それが喋るようになるとでも思うというのか?」
こちらを向いた、と思ったのはシレアの勘違いであったようだ。男の目線は、よく見ればいましがたシレアが入ってきた扉に向けられている。だがそんなことよりも、男の言葉を理解することの方にシレアの脳は集中していた。そうでなければシレアにとっては理解に苦しむ発言だった。
「君は
男の言葉が終わる前に、シレアは男の頬を張り飛ばしていた。
(蝶番? 造花? 馬鹿にしているにも程があるわ)
ライドリックがいる場所を知っているわけではなかったが、シレアは孤児院の廊下をずんずん歩いていった。隔離すると言ったからには一番奥だろうと勝手に当たりをつけていた。鍵がかかった部屋などそうそうあるわけでもないだろうし、孤児院自体、そんなに大きな建物でもない。
今更さっきの男に尋ねるくらいならこの建物の部屋をかたっぱしから開けてもいいと思った。
だがシレアの予想は外れておらず、一番端の離れた所に、鍵の掛かった部屋を簡単に見つけることができた。男から貰った鍵を差し込んでみると、拍子抜けするほどあっさりと鍵が回った。
「ライドリック? ここにいるの?」
部屋を空けて、真っ先にシレアは確かめずにはいられなかった。ライドリックが返事をしないことを解っていても――だ。冷やりとした空気に、思わず両手で自分の体を抱く。がらんとしていて荷物もないが、ただの倉庫のようだった。扉が閉まってしまえば光も差さず、昼だというのにとても暗い。
(こんなところに閉じ込めるなんて)
感情がなくても、生きる意思がなくても、それこそ造花と言われても言い返しようのない人形のようだった自分でも、護られ大事にされたというのに。それを思うと少年の境遇はあまりに不憫だった。
呻き、暴れることこそ生と愛されることへの渇望ではないか。それも理解できない人ばかりとなると、自分の境遇など幸せであるとすらシレアには思えた。
冷たい部屋の奥に人の気配を感じると、シレアはそこにかけよった。
「ライドリック!」
しゃがんで目を凝らすと、暗闇に慣れた瞳が白髪の少年を写し取る。そして、その奥の瞳の光までも、確かめることができた。
「シ、レ、ア」
そして、初めて聞く声が彼女を呼んだ。驚きに、シレアはただでさえ大きな瞳をますます一杯に見開いた。
「ライドリック? あなた、声が?」
「喋れる、よ。でも、久しぶり、だから……うまく、は、できないけど」
薄暗い中でも、確かにライドリックの表情が動いたのが解った。嬉しさに、シレアの表情も驚きからいっぱいの笑みにすぐに変わる。
「よかった! やっぱり、感情がないわけじゃなかったんだね!」
思わずライドリックの手を握って叫んだのだが、彼は少し苦笑したようだった。
「ないのと、同じだったと、思う。シレアに、会うまでは、何も見たくなかったし、喋りたくなかった。いつも、雨の夜のようだった。冷たくて、暗くて、何度も死のうと思ったけれど、怖くてそれも、できなかった。消えることができる、なら、そうしたかったけど、そんなに……簡単じゃなかった」
長いこと発音していなかったせいか、ライドリックの言葉は流暢ではなく、どもったりして聞き取り辛い箇所がいくつもあった。それでも一字一句聞き漏らすまいと、シレアは耳を澄ませていた。
そうして聞き取ったライドリックの言葉は、シレアにもよく理解できるものだった。辛く冷たい雨の夜を、シレアもよく……痛いほどよく知っている。
「そんな、俺を、誰も、見ようとはしなかったし……それも、当たり前だと、諦めてた。でも、シレア、だけ。俺に、話しかけて、俺を、見てくれたのは。どう、して?」
そこまで喋るころには、ライドリックは激しく息切れしていた。よほど長い間、彼は口を閉ざしていたのであろうことがそこから窺い知ることができた。それもそうであろう、ライドリックの惨劇の日がいつだったのかは解らないが、戦が終わってからでももう2年が過ぎているのだ。
ライドリックが問いかけで言葉を切った為、今度はシレアが言葉を模索する形になった。やっと口を開いてくれた彼の心を閉ざすような言葉だけは選んではいけないと思ったからだが、それを考えるあまりに形式的な言葉にもしたくなかった。それらの短い葛藤の後、シレアは唇を湿らせた。結局のところ、ありのままでぶつかることしかシレアは知らない。
「いろいろ、かな。あのね、あたしもね……、随分前だけど、大切なものをいっぱい失くしちゃった。そのときに、喋ることも、生きることも、笑うことも、一緒に失くしちゃったの。だから、あなたのことが解るのかもしれない。ていうか、解った気に勝手になってただけかもしれないけど。でもあなたと話したかったの」
「同、じ……」
今度はライドリックが少なからず驚きを示した。白髪の下の瞳が今、しっかりと自分を捉えているのがわかってシレアは大きく頷いてみせた。
「シレア、は、でも、よく笑う。どうして、そんな風に、笑える?」
再びシレアは考えこんだ。だが今度は言 葉を迷ったわけではなく、純粋にその答えを自分でも模索していたためである。自分が笑う理由を改めて言葉にするとなると難しかった。
「あたしは……。お兄ちゃんがいたから、かな。あと、他にもいっぱい、仲間がいたから。いつもちゃんとあたしを見てくれた人がいるから、きっと辛いことがあってもあたしはあたしでいられるんだと思う」
「……羨ま、しい」
シレアの言葉に、ライドリックは力なくうなだれた。彼を取り巻く環境を考えればその心情もうかがい知れたが、それだけが全ての人でないことを知るシレアには、それがもどかしくも思えた。
「ライドリック。今日も、うちに来てよ。たいしたものはないけど、おいしいもの作るから。きっとお兄ちゃんもエスも、待っててくれてるよ。今日もライドリックを連れてくるって言ってきたもの」
シレアがにぎりしめた手を引いたが、ライドリックは意に反して首を横に振った。
「やめて、おく。俺が、シレアのところに行くの、ここの人たちは良く思わない」
「どうして? そんなの気にすることないわよ! あんな冷たい人! さっき殴り倒してやったんだから!」
さすがに男のライドリックに対する非情な言葉まで彼の前で口にすることははばかられたが、シレアがそんな風に憤ると、ライドリックはきょとんとし、そして笑い出した。
「殴った? シレア、見かけによらないな」
「だってぇ、あいつムカつくんだもん! こうみえてもあたし、けっこう強いんだからね!」
ライドリックが笑ったのが嬉しくて、シレアはなおも茶化しながら力こぶを作ってみせた。そんな仕草にライドリックはまたひとしきり笑ったが、ふいに笑いを収めると真剣な目つきをした。
「確かに、アイツはムカつく、ヤツだ。だけど、仕方ない。この、孤児院は子供ばかり、だっただろ? ある程度の歳になったら、みんな、ここを出て働く。そういう決まり、なんだ。俺みたいな、境遇のヤツは、沢山いる。なのに、俺だけが、立ち直れず、喋ることも、ままならなかった。あいつらが俺を煩わしがるのは、当たり前の、ことだ。そんな俺、だけが、いいものを食べてくるわけに、いかない」
「でも、こんなところに閉じ込めるなんて……」
ライドリックは分別のない子供ではない。むしろ全てを理解しすぎていて、悪循環の葛藤を続けていたのだ。それがわかると逆にシレアには彼が痛ましかった。だがライドリックはまたも首を横に振った。
「ここに、入ったのは、わざと、なんだ。ここなら、シレアと、2人になれると思ったから。話が、したかった。そして、俺も、少し考えてみたかった……」
そこまで喋ると、ライドリックは大きく息をついた。
「久しぶりに、沢山、喋ったから……少し、疲れた。……少し、休みたい」
力なく壁にもたれかかるライドリックは、本当に疲労しているようだった。それもそうだろう、昨日までとはまるで別人のように、彼はよく喋ったし、表情も動いた。それは人形のように生きていることよりはるかに疲れることだろう。
「シレア、明日も、会いたい」
「……うん、明日も来る、ライドリック。……ううん、ラディ。そう呼んでいい? あたしが考えた愛称なんだけど、嫌じゃなければ。仲良くなりたいから」
「……ラディ……」
すっかり掠れた声で、それでもライドリックは反芻した。
そして、確かに微笑むと、繋いだままのシレアの手を強く握り返したのだった。