5.
「シレアのやつ、今日も出かけてったな」ふいに声をかけられて、リューンは窓の外から視線を外した。外を眺めたところでどうということはない、水滴の流れる窓から見える滲んだ景色など、ここ最近はすっかり見飽きてしまっている。
「……そうだね」
穏やかな笑顔で振り返る。声の主など知れている、景色など比べ物にならないくらい長い付き合いだ。さすがに見飽きたなどと言っては失礼だろうが。
「心配じゃないのか?」
「確かに、雨じゃ滑るし視界も悪いからね。でも城下町は治安もいいし、まだ時間も早いから」
「や、そうじゃなくてだな……」
リューンののんびりした言い様に、エスティは苛立ったように頭を掻いた。
「大事な妹さんが、若い男のとこに通い詰めて心配じゃねぇのかって、オレはそっちの意味で言ってんだけど」
「ああ……、でも彼はシレアを傷つけるようなことはしないと思うよ」
マイペースな笑顔を続けるリューンに対して、エスティは今度は呆れた顔でため息をついた。苛立ちを通り越した、といったところだろうか。
「オレとラルフィのときはあんなに煩かったのにな。お前シレアを妹扱いする割りに、ラルフィに対する態度とはえらい違いだよなぁ」
エスティにしてみれば、それは何気ない言葉だったのだろう。だが、そこで初めて、リューンの笑みは消えた。
エスティがそれに気付いたかはわからない。だが、彼はそれ以上何も言ってこなかったので、食堂には雨の音だけが響いた。
いつもなら客で賑わう食堂も、店を閉めている今は暗く、寂しい。
それは滲んだ景色と同じ、色を失くしたモノクロームだった。
そんな物悲しさに感傷を覚えることなど、ここ最近はなかった。だが、そのような白黒の世界は、懐かしいものではあった。
(まるで、シェラを失ってからの日々だ)
陰鬱な過去を思い出してリューンは隻眼を閉じた。だが、気付いてすぐに目を開ける。
(――客のせいでも雨のせいでもない――)
白黒の過去に終わりを告げたのは、月明かりの夜の色だから。
だから今ここに色がないのは、きっと彼女がいないから。
「いるといるでうるせぇけど、いないと静かで退屈過ぎるよな」
そんなとき、エスティがふと呟いた言葉に、リューンは笑った。
シレアが孤児院に辿り着くと、そこには既にライドリックの姿があった。
「ラディ?」
驚いて呼びかけると、彼は微笑んだ。数日前まで感情が無かったなど嘘のような、自然な笑みだった。
「シレア」
昨日より幾分流暢な声で、ライドリックもまた呼びかける。軒下で雨を防いではいたようだが、たまにふりこんでくるのだろう、服は半分ほど湿っていた。
「ラディ、待っててくれたのは嬉しいけど、こんなところにいたら風邪引いちゃうよ」
傘を差し出そうとして、初めてシレアは、ライドリックの方が自分よりも身長が高いことに気付いた。
何故今まで気付かなかったのだろうと考えながら、改めてライドリックを見上げてみて、少し解った。
年下だから、小さく見えていたせいもあると思う。だがそれ以上に、初めて会ったときのライドリックは、手を引いてやらねば何もできない少年だった。だが今はもう違う。自分で動き、喋り、表情も変わる。伸びっぱなしだった白髪を束ね、隠れていた双眸には意志の光が宿っていた。
(綺麗な空色)
それは晴れた空を映したような見事な青で、シレアはなんとなく友人を思い出していた。
「どうかしたか? シレア」
ライドリックにそう話しかけられて、シレアは自分がぼうっとしていたことに気付いた。
「う……ううん。ラディの目って綺麗だなと思って」
「そうか?」
「うん、まるで王妃様みたい」
だがライドリックが少し複雑そうな顔になったのを見て、男性に対する誉め言葉ではなかったとシレアは慌てて補足した。
「あ、ううん。この国の王妃様も、同じくらい綺麗な碧眼だって、そういう意味」
シレアの言葉にライドリックは「そうか」とだけ短く応えた。それでこの会話が終わってしまったので、シレアは話題を最初に戻した。
「えっと、ごめんねラディ。待たせちゃって。でも正直ほっとしたわ。あの孤児院の人に会うの億劫だったの。昨日殴っちゃったし」
「そうだと思って、外で待ってたんだよ」
あはは、と声を上げてライドリックが笑い、シレアは「そうなの」、と赤面した。
「だからさ、今日は外を散歩しないか? 雨が億劫じゃなければ」
ライドリックの提案に、シレアは少し考えたが、すぐに頷いた。孤児院の中は居心地がいいとは言えないし、だからといってあの暗い倉庫にいるのもはばかられた。別段寒い季節でもないし、外の方が確かにずっと快適なのかもしれない――ライドリックにとっては、特に。
「……うん、いいよ。あたし、雨、嫌いじゃないし」
シレアが微笑むと、ライドリックはほっとしたように表情を和ませた。
「俺も、雨、好きだ。シレアに出会った日が、雨だったから」
そう言って、先に立って歩き出したライドリックを追いかけながら、シレアは少し表情を赤らめた。ライドリックの、純粋で真っ直ぐな好意が伝わってきて照れくさかった。だがそれを隠すように、シレアは明るい声で話題を変えた。
「ね、ねえ、ラディ。どこ行こう?」
「シレアは? どこか行きたいところある?」
逆に聞き返されて、シレアは首を捻った。
徒歩では行ける範囲に限度があるし、馬車は高価だ。そもそも、この長雨で、ほとんど走っていない。
天気がよければ、川べりでひなたぼっこも良いだろうが、雨天では腰も降ろせない。
「うーん……あ、公園はどう? この近くの公園だったら、確か屋根つきのベンチがあったと思うけど」
「そこなら、ゆっくり話せそうだな。じゃあそこに行こう。傘、持つよ」
シレアの傘にライドリックが手を伸ばす。
赤い傘の下、2人は並んで歩き出した。