2.

 空にどんよりと立ち込める黒い雲からは、大粒の水滴がとどまることを知らず滴り落ち続けている。
 暗い影がモノクロームに塗り替えてしまった街並み。そこに唯一色を添えているのが、往来を行く少女の赤い傘だった。
 そんな陰鬱な昼下がりだから、少女の他に通りに人の姿はない。

 しかし、少女が或る出会いをしたのは、そんな雨の午後だった。

 ともすれば、見落としてしまったかもしれない。
 赤い傘も、ピンクベージュの髪も、神秘的な蒼い瞳も、少女の持つものは白黒のフレームに良く映えているというのに、彼女がすれ違った少年は、色を全て失くしてしまったかのように、陰鬱な午後に溶け込んでそこに立っていたからだ。
 道に立っていたのでなければ、存在に気付けたかどうかも怪しいところである。
 だがどれほど少年が色褪せていようと、陰鬱さを纏っていようと、この土砂降りの中に傘もささず立っていれば、目には留まる。
 しかしその異様さに、声をかけるものはいなかっただろう。――この少女を除いては。
「ねぇ、どうしたの? 何かあったの? そんなに濡れたら風邪ひいちゃうよ」
 少女にあるのは、少年の異様さに対する怪訝さなどではなく、純粋な心配だった。あれこれ勘ぐる前にまず、びしょ濡れの少年の身を案ずることの方が彼女にとっては先決だった。
 だが、声をかけても少年が動くことはなかった。雨で顔に張り付いた、真白な髪の奥に、瞳を見ることも叶わない。そう、少年は、小柄な体つきから推察できる若さに反して、白髪をしていた。
 ともあれ、声をかけても微動だにしない少年に、少女は眉をひそめた。髪の奥の瞳もきっと、こちらには向いていないのだろう。自分の声も届いていないのかもしれない。その事実は一層少年の異様さを引き立たせたというのに、少女の関心はそれに比例して高まっていた。
 
 それは、その少年と良く似た人を知っていたからに他ならない。

 少女は少年の冷たい手を引くと、傘を彼に傾けて軒下へと誘導した。少年はやはりこちらに反応を示したりはしなかったが、頑として動かないかというとそうでもなく、手を引くと素直に誘導する方へと歩んだ。
 それが、少年が生きているという唯一の証だったかもしれない。そうでなければ、死体かと思うくらいに、その少年に生気はなかった。

「あたし、シレア。ねぇ、あたしの声聞こえてる?」

 反応がなくても、少女は――シレアは、少年の方に向かって、はっきりとした口調で語りかけた。

「ねえ、聞こえてたら、名前を教えて」

 少年を安心させるような笑顔で、シレアは尚も続けた。少年は、確かに歩いたのだ。だったら少年が聞こうとすれば聞こえる筈だ。それには彼に聞こうとする気を起こさせればいいと、シレアは思っていた。そして同時に、どうしてもそうさせたいという思いがあった。それが少年にも通じたのだろうか。
 白髪の少年は、何度目かの呼びかけに、僅かに、ほんの僅かではあるが、顔を上げた――

「ライドリック」

 少女がぱぁっと笑みの明るさを増したのと、声が聞こえたのはほぼ同時だった。だが、その声はシレアの問いかけに答えはしたが、シレアの欲していた相手からの声ではなかった。それが解ったのは、雨水を跳ね飛ばす、通りを歩く足音と人の気配がしたからだった。
 シレアが傘から顔を覗かせてそちらを見ると、蒼い瞳に男性の姿が映った。といっても、黒いレインコートと黒い長靴が伺える男の特徴の殆どで、男性だとわかるのも、コートのラインからわかる体格から辛うじて、だ。それは生気のない少年よりずっと、街のモノクロームと陰鬱さに溶け込んでいるとシレアは思った。
「あなた、ライドリックっていうの?」
 シレアはすぐに男から視線を外すと、少年に向かって男が口にした、名前であろうそれを語りかけた。だが、さっき動いたのは錯覚だったのかと思うくらい、少年に動きはもう見られなかった。
「無駄だよ、お嬢さん。その子は喋れない」
 黒いレインコートの男性が口を開いたので、シレアはもう一度、男の方を向いた。
「喋れないっていうことは、聞こえてはいるの?」
「さあ、そこまでは知らない。その子は、前の戦で目の前で家族を殺されたらしいよ。そのときのショックでそうなってるんだ」
 男の無遠慮な物言いに、思わずシレアは傘を放り投げると、男に噛み付くように怒鳴ってしまっていた。
「……ちょっと! 聞こえてるかもしれないんでしょ? そんなこと、本人の前で――」
 しかし、男にはそんなシレアの物言いに、胸を痛めたような様子は微塵も窺えなかった。
「聞こえてようがいまいが同じことさ。誘導しないと動かない、喋らない、聞いても反応しない、なら別に聞いていないのと同じだし、死んでいるのとも変わらない」
「っ、そんな言い方って……!」
 シレアが声を荒げると、今度は男は表情を変えた。いや、コートのフードに覆われた顔から多くの表情はうかがえないが、まとった空気は確かに変わったのだ。だが、それは自分の言動を恥じる類のものでは決して無く、むしろ噛み付いてくるシレアを煩がっている雰囲気だった。
「――この子は、この先の孤児施設にいる。戦争で親兄弟をなくしたのはこの子だけじゃないんだ。同じ境遇の子が、それでも生きようともがいて、だが満足な食事も得られないでいるんだ。なのにこいつは生きる意志もないのに食料を食い潰す」
 淡々とそう述べた男に、シレアはぐっと言葉を詰まらせた。口達者なシレアではあるが、何かを言い返すには男の言葉はあまりに要領を得ていたし、また男が冷たいだけの優しさのない人間であることをも否定していた。
 男の言葉全てに納得したわけではないが、シレアが咄嗟に言葉を返せないで居るうちに、男は少年――ライドリックを連れ、シレアに背を向けて歩き出してしまっていた。