15.「ごめんね」

 エスティは一言も言葉を発せられないまま、このありえない光景を眺めていた。
「……死に損ないが……ッ」
 苦々しく吐き捨ててガルヴァリエルが立ち上がる。
 その前に凛として立ちはだかるのは、エスティがよく知った少年。だが、ここに――いやこの世界のどこにも、決しているはずのない少年だった。
「もう二度と、貴様にシェオリオを渡しはしない……! その為にぼくは来たッ」
 真っ直ぐにガルヴァリエルを射抜く隻眼には迷いも恐れもない。だが立ち上がったガルヴァリエルの表情には、うすら笑いが戻っていた。
「笑止! 最初に奪ったのは貴様達、人間だ!!」
 ガルヴァリエルに向けて、力が集束する。

「リューン!!!」

 その名を呼ぶと、少年は振り向いてにっこり笑った。彼に届かず力は霧散する。
「精神世界では貴様の好きにはさせない」
 再びガルヴァリエルに向き直り、彼は――リューンは不敵に言った。彼を一瞥し、皇帝――否、神ガルヴァリエルは一笑する。そして、再び黒い光が彼へと集束し、ガルヴァリエルの力とリューンの力が正面から衝突して拮抗する。
「リューン!!」
「エス! 今のうちに……」
 力を繰りながらリューンが叫ぶ。その言葉にエスティははっとした。真実は知った。もうここに用はない。

『“我が御名において命ず。冥界の深奥に住まう冥府の主よ。我が魂を喰らいて出でよ”!!』

 腕にしっかりとラルフィリエルを抱えて印を切る。
 この空間はエインシェンティアだとイリュアは言った。そして、もうこのエインシェンティアは役目を終えたのだ。
 スペルを詠む声にガルヴァリエルが苦々しくこちらを睨めつけ、力を強める。
「邪魔はさせない!!」
 リューンの放つ光が拡散してガルヴァリエルを飲み込む。エスティさえ驚くほどの強い力だった。

『“汝の力で以って、彼の力を、死兆の星の彼方へと還さん”!!』

 スペルが完成し、ガルヴァリエルの方を見る。紫の瞳でこちらを睨みながら、彼は手を下ろすと力を消した。
「……ふ。いささか茶番にも飽きた。そろそろ決着をつけようか、人間」
 リューンの力の向こうで、穏やかな声が終焉を告げる。穏やかな、冷たい声。
 一瞬、光の向こうに、エスティはガルヴァリエルの姿を見た。そしてその視線は腕の中のラルフィリエルに注がれている。その瞬間、エスティは見たことを後悔した――
 その瞳には――ラルフィリエルを見つめる彼の瞳には、優しさが満ちていた。

 救済など、ない。

『“物質消去(ライフ・デリート)”!!』

 耳に蘇ったガルヴァリエルの言葉を祓うように――エスティは叫んだ。虚無の黒い霧が辺りを包み込む。
 ――何もかもを、飲み込む。


「……おかえり、エスティくん。」
 はっと目をあける。
 虚無の霧はすでになく、もといた石室に戻ってきていた。だが光の紋様は全て消え失せている。大分憔悴した顔で、イリュアは微笑んでいた。
 腕の中にはちゃんとラルフィリエルがおり、ガルヴァリエルの気配も消えていて、エスティは安堵の息をついた。だがもうひとつ大事なことを思い出して振り返る。
 もういないのではないか。そんな危惧にエスティは焦ったが、振り向いたそこには見慣れた隻眼の少年がいた。
「……リューン……?」
「うん」
 照れたように微笑んで、彼が返事をする。
「なんで……?」
「……ぼくの中のエインシェンティアが、生命エネルギーになってるみたい。ぼくの命が終えてエインシェンティアも力をなくしつつあって、確かにぼくは一度死んだんだけど」
 ごそ、と衣服を探り、リューンが何かを取り出す。長い銀色の絹糸のようなものが、その手から覗いた。
「ラルフィの髪……?」
 だがそう気付いた丁度その瞬間、それは崩れて銀の砂となり、彼の手から零れ落ちて消えた。少し哀しげにそれを見つめ、リューンが続ける。
「多分、これが、ぼくのエインシェンティアの力を増幅させたんだね」
「――だとしたら、奇跡だわ」
 黙って成り行きを見ていたイリュアが、初めて声をはさむ。
「古代の力ですら、死者を復活させることは不可能だった。よほどリューンくんの持つエインシェンティアがリューンくんと深く繋がっているのか……ううん、でももう奇跡としか……」
 イリュアが言葉を途切らせる。エスティの腕の中で、ラルフィリエルがうっすらと目を開けたのが見えたのだ――
 そしてその瞳にエスティが映り、やがて彼の視線の向く方向へラルフィリエルもその瞳を這わす。瞬間、アメジストの双眸が見開かれた。
「……リュー……ン……?」
 小さな囁きが唇から漏れる。エスティが彼女を抱えた手を離し、彼女を立たせてやる。
「シェオリオ……ごめんね」
 リューンが微笑んで呟くと、ラルフィリエルは走り出していた。その胸に飛び込むと、懐かしい温かい手がしっかりと自分を抱きしめる。
「遅くなったけど、迎えにきたよ……もう、どこにもいかないし、いかせないから……」
 泣きじゃくりながらラルフィリエルが何度も頷く。しっかりと彼女を抱きしめながら、短くなったその髪を、リューンは何度も撫でた。しばらく二人はそうしていたが、やがてラルフィリエルの嗚咽がおさまると、彼女の体をそっと放し、リューンは改めてエスティの方を向き直った。
「……えっと……」
 何か言わねば、と思うのだが何を言えばいいのかわからない。
 そしてそれはエスティもまた同じだった。突然のこの状況を頭がうまく理解してくれずに、何も言えず動けずにいた。だが、ようやく事態を理解したとき――
 我知らずエスティは駆け出していた。そしていつかと同じように、その頬を殴り飛ばす。
「……!!」
「エスティ!?」

 声もなく殴り飛ばされたリューンと、絶句するラルフィリエル、苦笑するイリュア。だが起き上がったリューンが取ったのは、まったく予想外の行動だった。
 口の端から血を流したまま彼はにこにことエスティに歩み寄り、そしてためらいなく拳を振り上げ、殴り返す。
「――――!」
 成す術なく吹っ飛ばされて、エスティは頬をさすりながら起き上がった。
「痛ぇな」
「こっちの台詞だよ。全くエスはすぐ暴力に訴えるんだから」
 自分のことは棚にあげて文句を言うエスティに、リューンは呆れたように溜め息をついて見せた。
「……もう一度、君の旅についていかせてって言おうとしてたんだけど。やめたよ。君みたいなのの相棒やれるの、ぼくしかいなさそうだし」
 そして、笑う。悪態をつくその呆れた口調とは裏腹な、極上の笑みだった。
「……やっとわかったか」
 呆れたように笑う、そんなエスティの陰りのない笑いも、久しぶりのものだった。
 がつん、と腕を交差にぶつけ、にっと二人が笑い合う。
 もうリューンの笑顔に、以前までの哀しみや儚さはない。
(やっと本当に笑ったな)
 眩しいまでの友の笑顔にエスティは目を細めた。
 それはエスティが初めて見る、リューンの本当の笑顔だった。