10.1人じゃない
何かから逃げるように、走り去る彼女が視界から消えても、エスティはその後を追えずにいた。ラルフィリエルのことは気になったが、それ以上に自分の手や衣服を染め上げて行く友の血が、鎖のようにその場に縛りつけて動けない。「…………ッ」
頭がまわらない。声も出ない。ぼんやりと痺れた思考を置き去りにしたまま、耳の奥に叫び声が届く。新手のセルティ兵が次々に周囲を取り囲んでいくのを、視覚ではないところで察知し、頭の奥で何かがぶつんと爆ぜた。
「う……おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!!」
リューンを抱えたまま、エスティは吼えた。
声に呼応するかのように、精霊は震撼した――
ゴゥッ!!
形容しがたい音と共に、力の奔流が肌を掠めてチリチリとした威圧を大気に伝える。エスティとリューンを核に、辺りのものは全て吹き飛んだ。
ある者は血を撒き散らし、ある者は、首をおかしな方向に曲げて。セルティ兵が成す術なく力に呑まれて行く。それはエインシェンティアの暴発にも似ていた。それをぼんやりと深紅の瞳に映しながら、エスティは皮肉なほど体内に溢れていく力の正体を探っていた。怒りか、憤りか、哀しみか。その感情の名前を定義はしかねるが、激情に突き動かされて何かが目覚める。
「エスティ……」
隻眼を微かに開き、リューンは呻いた。凄まじい力の威圧に彼は僅かに驚きを浮かべたが、畏怖は無かった。その小さな呟きを、友はちゃんと聞き逃さなかったから。
「力の……使い方を、間違っちゃだめだよ」
こちらを振り返ったエスティの表情は――
凄まじい力を行使している割に、情けないものだった。今にも泣き出しそうに歪んだ表情。いつも勝気な彼のそんな顔を見たことがなくて、リューンは苦笑した。すると、ふっと肌をも焼きそうな威圧が収まり、力が消える。
「……わかってる」
呟いたエスティに微笑みかけて、リューンは体を起こした。
「動くな、傷が……」
「でも、シェラを……シェオリオを追わないと」
立ち上がろうとして、リューンが足を地につけ力を込める。途端に傷口からボタボタと血が溢れ、エスティは顔をしかめた。
「やめろ! 無理だ!!」
だが制止するエスティの手を、――どこにそんな力が残っているのか――振り払って、辛うじてリューンは立ち上がった。傷と出血の割に彼の顔は穏やかで、もう痛みすら感じていないようだった。
「……追わなきゃ……」
「リューン……!」
血の気を失った美貌は笑みを讃えているが、瞳は何も映していない。
彼が捜しているのは――彼の瞳が写し取るものは、恐らくたったひとつだ。それが何かを悟って、エスティは唇を噛みしめた。
「……もういい! 彼女はオレが連れてくる。だから、動くんじゃない!」
「ダメだよ、行かせられない。だって君は、君の使命は……シェラを消すこと。行けば君はシェラを殺してしまう」
「ッ」
美貌に拒絶の色を宿したとき、エスティもまた表情に苛立ちと怒りを露わにした。
「……お前は、わかってない……ッ」
哀しみを孕んだ怒声にはっとなる。曇った隻眼がエスティを捉え、そのときリューンの笑みは消えた。
「……わかってる、よ。……わかってる。君なら、シェオリオを救ってくれるって。例えどんな結果になっても……だから……わかってるから……」
傷口を押さえる。暖かいものがあふれだして手を伝う。足から力が抜け、体が自分の意思とは関係なく崩れ落ちる。もうこの体では彼女を追えない。それに追っても、何もしてやれない。嫌でもそれは理解せねばならなかった。エスティが支えようと駆け寄ったが、リューンは首を横に振ってそれを拒絶した。
(願わくは……その手が、シェオリオに差し出されるように)
友を見上げる。その姿は、彼にとって、頼もしく、そして眩しい。
「エス……シェラを、頼む」
「……ああ。でもお前を置いては行けない。まずここを切り抜けてから」
だがリューンはエスティの言葉を止めるように片手を上げた。
『“
「ッ!」
同時に背後で気配を感じ、弾かれたようにエスティが振り向く。セルティ兵が剣を振り上げたまま、リューンの精神魔法で動きを止めていた。
「ぼくならまだ戦える。……ぼくはエインシェンティアを宿している……そう簡単に死んだりしないよ。だから……エス。頼む。このまま行って」
そう言ったリューンにはまだ力強さがあって、だからエスティは、少しだけ安堵した。
大丈夫だと、思った――
「……お前に“頼む”なんて言われたの、初めてだな」
苦笑し、エスティはリューンを支える手をそっと離した。少しふらつきながらも、リューンは自力で立ち上がった。
「……死ぬなよ」
「死なないよ。だって、約束したでしょ? 君が死んだらぼくが泣いてあげるって」
悪戯っぽく笑ったリューンに、彼と出会った日のことを思い出す。
(お前は知らないだろう。孤独だったオレがお前のその言葉に、どれだけ救われたか)
リューンに背を向けて、エスティは駆け出した。駆けつけた新手のセルティ兵の何人かがそれを追って、そして何人かがリューンへ剣を向ける。だがリューンは、大きく頼もしい親友の背を見つめたまま微笑んだ。
「大丈夫だよ、エスティ。君はもう1人じゃないから――」