11.勝ち取った戦い

 とてもとても深い闇。闇はとうとうとたゆたい、くるくると体を運んで行く。その流れに身を任せているうち、少しずつ意識ははっきりしていった。
(わたし……ああ、海に落ちたんだった)
 ミルディンは、瞳をうっすらと開きかけ――やめた。覚醒しかけた意識を、また闇の中に放つ。そうしたのは、意識を失った経緯を思い出したからだ。海に落ちたところから遡って、引き上げようとしてくれたリューンの手の感触が蘇って、バランスを崩して船から放り出されそうになったのを思い出して、そして――
 それより前を遮断するように、ミルディンは強く目を閉じた。暗闇の中で、ぐるぐると記憶が回る。
 とても広い城の中、何一つ不自由のない王宮暮らしの中で、だが何一つとして望みなど叶ったことはなかった。その中で、この旅は始めて勝ち取った自由だった――尤も、“王女として”、“国の平和の為に”成り立ったそれを、自由と呼べるならの話ではあるが。
 それでもミルディンは満ち足りていた。護られているだけの自分が、世界の為に何かできることを。
 だがそんなものは、全てただの自己満足だったのだと痛感した。自分の甘さに気付くのが遅すぎたことを悔やみながら、その思考すらも闇の中に放り出そうとしているのに。
 ――誰かが自分を呼んでいる。覚醒しようとする意識は、もう止めることはできなかった。
(お願い。このままにしておいて)
 儚い願いの方こそが、闇の中に消えてしまう。

「ミラ!!」
 目を明ける。目前で、鮮血が散った。そして黒軍服の兵士達が倒れてゆく。心臓が激しく縮み上がって思わず呼吸を忘れるが、目の前で兵士を切りはらう人物に目を留めて、ミルディンは息を吐きだした。
「……ルオ」
 それと同時に彼の名前を呼ぶ。すると、彼はすぐに振り返った。
「ミラ、気がついたか!」
「……わたし」
 起き上がって辺りを見回す。倒れていたのに柔らかな感触を感じていたのは生い茂る草の為で、草原に倒れていたようだ。海に落ちた筈なのに、と訝る。服や髪が湿っているので、それは間違いない筈だ。だが問おうとすれば他の仲間の姿は見えず、ただルオと、彼に襲いかかる黒い軍服しか見えない。その軍服には見覚えがあった。見紛うはずもない、セルティのものだ。
 問える者がいないので自分で思考を巡らせてみる。今自分がここにいるのは恐らく、ルオが助けて運んでくれたのだろう。それは推察できた。だがそれ以上のことがどうしても解らない。
「なんでこー、どっち向いてもセルティ兵ばっかりなんだ!?」
 そんなとき聞こえてきたルオのぼやきは、丁度今しがたしようとしていた質問で、ミルディンは口を噤んだ。
 状況は解らないが、少なくとも今自分は敵陣にいるということは解った。
(わたしも手伝わなきゃ)
 頭ではそう思う。だが体は酷く重かった。かざそうと持ち上げた右手は、自分でも驚くほど緩慢な動きしかしなかった。そんな自分を叱咤する思考のさらに向こうでは、逆の声がしている。――もうどうでもいい。このまま死んだら楽になれる――。
 だけど、さらにそれを打ち消す叫びがあった。
 “しっかりして”と。もう一度会いたいなら、生き延びなければいけない、と――
(そうよ。わたし、いつからこんなに無責任になったの)
 迷惑をかけられない。足手まといにはなれない。城を出るとき自分に誓った筈だ。護られるのではなく何かを成すために、今自分はここにいる筈だ。セルリアンブルーの瞳が輝き、ミルディンは顔を上げた。

『“――我が御名において命ず! 契約により、時空の扉よ開け!”』

 かざした彼女の手が空間を歪める。

『“出でよ、ラルトフェルテデス!”』

 閃光が迸り、その歪みからまばゆい白銀の竜が出現する。そして咆哮と共に灼熱の炎が兵達を飲み込んだ。
「ルオ、わたしも戦います」
 毅然とミルディンが言い放ち、ルオは行き場のなくなった剣を肩に担ぎ、ひゅう、と口笛を吹いた。
「それが、召喚ってヤツか。すげぇな」
 少しサイズを縮め、ミルディンの肩にとまったラトを見て、ルオが感嘆の声をあげる。だがその炎の向こうからまた兵が押し寄せてくるのを見て、彼は渋面になるとだるそうに頭を掻いた
「けどまあラチがあかねえやな。こいつらを根絶やしにしたところで不毛な争いってやつだ」
「ええ。早くエスティ達を捜しましょう」
 ラトのブレスをかいくぐってきた兵士を魔法で薙ぎ倒しながら、ルオの言葉にミルディンも同調した。
「そうだな。よし、まずはこいつらを振り切ろう」
 言うなりルオはミルディンの手をひっつかむと駆け出した。その後をセルティ兵が追う。だがそれを振り払おうとしたルオの剣は、宙を掻いた。

『“精神支配(ソウル・コマンド)”!』

 突如響いたその声と共に、セルティ兵がバタバタと倒れてゆく。
「リューン?」
 声とそのスペルから、頭に浮かんだ人物の名をミルディンが呼ぶと、はたして草原の向こうからミルディンが思い描いた通りの人物が姿を現した。穏やかに笑うその美貌と、華奢な身体のほとんどを、だが何故か深紅の血に染めて。そしてその体はぐらりと傾いだ。咄嗟にミルディンは手を伸ばしたが支えきれず、ルオが倒れかけた二人を支える。
「おい、どうした!?」
 ルオがリューンを揺するが、それ以上彼は何も答えない。合流できた安堵で気を失ったのだろうが、そもそも今まで意識を保っていたことが不思議な出血だ。一目見てそれが解るような状態に、ミルディンは顔色を変えた。
「動かしてはダメ! この出血じゃ、危険だわ。急いで治癒しないと……!」
 鋭く叫びながら、だが治癒が意味を成すかどうかも危ういということは口には出さなかった。その考えすらも思考の外に押しやって、リザレクト・スペルの印を切る。だがそれを遮るように、セルティ兵の剣が閃いた。
「きゃ……!」
 一瞬無防備となった彼女に成す術はなく、代わりにルオがその剣を弾いた。そして意識を失ったリューンを担ぎ上げる。
「急ぐのは解るがここじゃ無理だ! こいつらを振り切って安全な場所を探すぞ!」
 帝国領であるこの大陸に安全な場所などあるのか、そしてなぜこれほどの数のセルティ兵がいて、襲ってくるのか――わからないことだらけだが、しり込みしている場合ではない。頷くとミルディンはルオを追って駆け出した。