9.誰殺(たそ)がる大陸

 ふと、シレアは書類から顔を上げた。
 叔父の片腕となるため、国政に関する書物を読み耽っていた所だった。傍らで国務をこなすアミルフィルドを目の端にとらえながら、シレアは静かに立ち上がるとゆっくりと窓の方へと歩み寄った。
「どうした、シレア?」
 叔父の邪魔をしないように注意は払ったつもりだが、アミルフィルドはシレアの動きに気付くと穏やかに声をかけてきた。
「あ……なんでもないの。ただお兄ちゃんの声が聞こえた気がして……」
「リューン君の?」
 頷いてシレアは窓を開けた。すがすがしい空気が流れ込んでくる。天気が良いとは言い難いが快い風だ。
「きっと、空耳ね」
 切なげな笑みを浮かべた彼女に、アミルフィルドは柳眉をひそめた。
「……すまないな、シレア。皆と行きたかったろうに、手伝わせてしまって」
「! いいえ」
 窓を閉め、慌てて否定する。
「そんなつもりで言ったんじゃないの。ここに残ったのはあたしの意志よ」
 自分でも確認するように、きっぱりと言う。
「……本ばっかり読んでたから疲れちゃったのかも。叔父様も、少し休憩にしてお茶にしません?」
「そうだな」
 シレアの言葉に応じて、彼は数日振りに腰を浮かせた。そして、シレアに向かって微笑する。
「シレア……私のことなら、心配せずとも大丈夫だ。お前に残って欲しいと言った私がこんなことを言うのもなんだが……いつ行ってもいいんだぞ」
「やだ、叔父様、何言ってるんですか。まだこんなにすることがあるんですよ? もう少し手伝わせてくださいよ」
 明るく笑い、「行きましょう」、叔父を促して部屋を出る。
(だけど、どうしてだろう……こんなに胸が騒ぐ)
 嫌な予感が止まらない。
「大丈夫よね……? お兄ちゃん」
 口に出して呟く。だが答えをくれるものは、誰もいない。


「……ッ」
 咄嗟には言葉が出ない。
 後ろへと崩れ落ちたその重みで、彼の体から剣が抜けて血が吹き出す。その返り血を浴びて、ラルフィリエルが剣を取り落とすのが見えた。こちらへと倒れこんでくる彼を受け止めて、呻く。
「リュ……ン?」
 瞬く間に深紅に染まっていく彼の体を見て、エスティは震えた。一目で絶望的であることが知れる。リザレクトスペルを紡ごうとしたラルフィリエルが口をつぐんだくらいにだ。
「何で……リューン、何でオレの前に!?」
「……ぼくは……」
 苦しげに肩で息をつきながら、だが満ち足りた笑みを浮かべてリューンがかすれた声で呟く。
「いつも、大事な人に何もできず……誰ひとりこの手に掴めなかった……だから、失いたくなかったんだ。君も、……ラルフィも。どっちが傷付くのも見たくないし、……どちらを失うのも、嫌だ……」
「……どうして!」
 錯乱しきったアメジストの瞳でラルフィリエルが叫ぶ。
「どうして! 私が死んでもお前には関係ない筈だ! なんでこんなこと……!」
「諦めないで。ラルフィ」
 最早声を出すことも辛いはずなのに、はっきりとリューンは言葉を紡いだ。
「生きることを……諦めないで。そして忘れないで……君がどれだけ罪を犯そうと……ぼくは君を失いたくないんだ」
 その会話に、エスティがはっとなる。
「……死? まさか……まさか、ラルフィリエル。消えるつもりだったのか? オレにわざとデリートスペルを使わせて……!」
 ラルフィリエルが目の前でがくりと膝をついた。否定しないことが何よりの肯定へと変わる。
(それで、……それに気付いて、リューンは……ッ)
 歯噛みする。
 そもそもデリートスペルは彼女の力を抑える為に詠んだだけで、彼女を消すつもりはなかった。――いや、厳密には消せないと思っていた。以前にも何度か彼女はデリートスペルに巻き込まれていたが消えることはなかった。それはエスティが完全にデリートスペルを扱えきれず、意志あるもの、即ち強い力を持つエインシェンティアまで消去することが不可能だったからである。
 何故か“生”に対する強い執着を持つラルフィリエルが、滅びを拒まない筈はないと思っていた。
 だが――それにしては不自然な点が多すぎたのもまた事実だ。
 彼女の攻撃は本気だった。そこには明確な殺意が見えた。だがあらゆる魔法をスペルなしで具現できる力を持ちながら、彼女が使ったのは威力がそうあるとは思えない風の魔法のみである。それに、本気で勝負を決めようとするならば、転移の魔法を駆使すれば簡単に背後も取れた筈だ。さらにはこちらがデリートスペルを使えると知っていて――それが相手の唯一の勝機と解っていて――しかしそれを使う隙を相手に与えてしまうなどという、あるまじきミスをおかしてしまっている。
 だが、それが全て意図的なら――
 莫大な殺気が、ちぐはぐな戦法を隠すためのものだったなら――
「……そうなんだな? それで……オレを呼んだのか……」
 精霊を集め、暴走させて。
 そうすればこの中心に誰がいるのか自ずとわかるはずと、そう踏んで――
 待っていたのだ。自分を消す者を。
 だが、ただ彼女は震えるばかりだった。自分が斬ったのが、実の兄だとは知る由もない筈なのに。
(……どうして今更……私は既に血に塗れている……いつものことだというのに……!)
 錯乱しきった頭を静めようと、冷静になろうとラルフィリエルは努めた。ずっと自分に言い聞かせてきたことを反芻する。それが偽りの感情だとわかっていても、そうするしかなかったいつもの作業。

(……限界だ)

 ぐるぐると回る思考が溶け合って闇になる。最初から答えは出ていた。全て偽りだ。
 だから――これ以上は偽れない。


 私は、斬ってしまった。


 プツン、と思考の奥で何かが切れるのを感じた。

「ラルフィっ!!」
 ふいに目を背け、駆け出したラルフィリエルをエスティが呼び止める。しかし彼女は振り返らなかった。