5.闇の海を往く

 王城の外に出ると、冷やりとした夜風が五人の肌を撫でた。スティンはどちらかといえば暖かい地方にあるが、さすがに日が照らない夜ともなると肌寒い。
 エスティは身震いをすると、被った外套をしっかりと押さえた。震えが来るのは、何も寒いからだけではないのだが。
「――ところで、兄ちゃん。セルティに行くのはいいが、どうやって行くんだ? きょうび、ラティンステル行きの船なんて出てないぜ。まして今は夜中だ」
 薄着の割りに少しも寒さを感じていない表情で問いかけるルオに、エスティは視線だけを走らせた。
「……あんたらしくもない発言だな」
 ぼそりと呟く。その言葉だけで、彼はピンと来たようだった。面白そうににやりと笑うルオの顔を見、アルフェスにも彼らの思惑がわかったようだった。
「……確かに。船ならいくらでもあるだろうな」
 やれやれ、と溜め息をつく。
「スティンは海沿いだもんね」
 それらの一連の会話を受けて、リューンもまた頷いた。なので、ミルディンだけが、まだわからないという表情で、一人困惑することになる。
「え……? でも、船はあっても出港してないって、今……」
「出ていないなら」
 彼女の疑問を受け、ルオはそう言うと、意味ありげな視線をエスティに向けた。エスティは、いつもの勝気な笑みをその表情に浮かべると、彼の言葉を継いだ。
「出すまでさ」
「……?」
 顔いっぱいに疑問符を浮かべる彼女を他所に、エスティは港の方へと駆け出した。


「……要するに、船を頂いちゃうってことだったんですね……」
 上機嫌で舵を取るエスティとは対照的な表情で――そんな彼を呆れた目で見ながら、ミルディンは深々と溜め息を付いた。
「すごく合理的だろ」
「そうかなぁ」
 キャビンに寄りかかったリューンが、にこにこ顔のままさりげなく突っ込む。もちろん、エスティは綺麗にそれを流した。
「何もこんな盗むような真似しなくても。せめてアミルフィルド様に一言……」
「構わねーよ、俺がいるんだから。文字通り大船に乗った気でいな、姫さん」
 なおもすっきりしない表情で言い募るミルディンに、ルオは得意げに自分を指すと、ドン、と胸を叩いた。
「それは、そうですけど……」
 それでもミルディンの表情は晴れない。王宮育ちの一国の王女としては、やはり気が咎めるのだろう。
 スティンを出て、およそ半刻。既にリルステル大陸は見えない――見渡す限りの海は、夜空を移して漆黒の光を放っている。その屈託のない黒に、彼女は少し身震いした。
「あのな、姫さん。使えるものは使っとく。もらえるものはもらっとく。これ人生の鉄則だぜ?」
「……姫に変なことを教えないでくれ」
 棘のある声で呟いたのは言わずとしれたアルフェスだが、その声はいつもより弱々しい。
「お? 元気ねぇな、兄ちゃん」
 いつもの鋭い切り替えしがないことに真っ先に気付いたルオのその言葉に、リューンは隣で自分と同じ様に船室によりかかったままのアルフェスを覗き込んだ。
「アルフェス? 顔色悪いよ」
「……」
「あのさあ、もしかして」
「おいおい、兄ちゃん。もしかして船酔いかい?」
「うっ……!」
 リューンの言葉を引き継いだルオの指摘は図星だったようで、アルフェスが言葉に詰まる。心配そうな表情のリューンとミルディンとは打って変わって、ルオは面白そうににやりと笑った。
「ふふん、なるほどな。じゃあ今のうちに、世界中を旅したこの俺様が、姫さんに世の中のいろはってのを教えてやるよ。誰かさんはちょっと過保護すぎるからなあ?」
「……っ」
 ミルディンのブロンドを、まるでエスティがいつもシレアにするようにぽんぽんとたたきながら豪快に笑うルオを、アルフェスが睨みつける。だが、それが限界のようで、それ以上は何もできないようだ。相当参っているらしい。
 だがそんな彼が何かをするまでもなく、ミルディン自身が取り澄ましてルオに答えた。
「では教えて頂こうかしら、ルオフォンデルス王弟殿下? わたくし、船も盗めない王宮育ちの世間知らずですから」
 子供扱いされたことが気に入らなかったのか、珍しく彼女が言った皮肉は益々ルオを愉快にさせる。
「王弟は盗みなんぞしねぇよ。俺は傭兵のルオとして言ってんだぜ、姫さん?」
「それではわたしのことも姫などとは呼ばないで頂けます? ここにいるのはただの世間知らずの娘、ミラです」
 そんな彼女の言い様に、ルオはたまらず大きな笑い声をあげた。
(このお姫様、いい性格してやがる!)
 自らも王族の身でありながら、堅苦しいことや面倒なことが苦手なルオは王族を敬遠する節があった。祖国でも王弟としてより専ら騎士隊長として表に出ていたのは王室が苦手な為である。だがその生粋の王室育ちのミルディンは、自分が想像するお姫様像とは違ったようだ。
 王女という型に嵌められてはいるが、どうも型に穴があいている。
 そういうところはもしかしたら自分と似たものがあるのかもしれない。知らず知らずの苦手意識は、親近感に変わっていた。
「その辺にしときな、ルオ。王女の機嫌を損ねると後でアルフェスが怖いぜ?」
 話を聞いていたエスティが冗談めかして言ったが、ミルディンに鋭い瞳で振り返られて思わず押し黙る。
「……いい機会ですから。みなさんもわたしのことを“王女”だとか“姫”だとか呼ぶのはやめて下さい。一緒に敵地に向かう仲間でしょう? ミラで構いません」
 穏やかだが有無を言わさぬ声に、エスティは困ったように頭を掻いた。
「けど、一国の王女を……」
 エスティがそう言葉を濁すのを聞くと同時に、鋭かった彼女の瞳に哀しみとも寂しさともつかぬものがよぎる。その表情にエスティはふうと息を吐くと、前言を取り消した。
「……わかったよ、ミラ。その代わり、オレを『さん』付けで呼ぶのもやめてくれよな。慣れねぇから落ち着かないんだ」
「あ、ぼくも」
 エスティに便乗してリューンがそう言うと、ミルディンは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう! エスティ、リューン」
 はしゃぐ彼女を視界の端に移しながら――リューンはそっと隣の人物に囁いた。
「いいの? アルフェス」
「……姫がそう望むなら、僕が口を挟むことじゃないさ」
 ミルディンから視線を外すと、アルフェスは俯いた。
 彼女が王女扱いされるのを嫌っているのは知っている。王女だとか姫だとか呼ばれる度に寂しさに胸を痛め、両親からそう呼ばれていたように、愛称で呼んで欲しいと願っていることも。だが、それは騎士である自分にはできないことだ。
「僕は、やっぱり過保護かな」
「自分の大事な人には誰だって過保護なんじゃない?」
 独白に近かったアルフェスの言葉に、だがリューンは応えを返した。遠くの海に視線を馳せながら。
 アルフェスは何か言おうと顔をあげたが、結局何も言えないまま――
 鋭い声に、船の上の全ての出来事が中断された。
「――何か来る」
 ルオの、さほど大きくはないが良く通る声は全員の耳にとどき、そして全員が感じとっていた。明確でもないし根拠ではない、得体の知れない危機感。
 舵をとっていたエスティも、遠くを見ていたリューンも。
 ラトに異変告げられたミルディンも、体調が優れないアルフェスでも。
 そして真っ先にその気配に気付いたルオが警告した。
「……セルティの国境警備隊……か」
 エスティの呻きに皆が一様に表情を厳しくした。