6.危機

 船の上には緊張が走った。そんな中でエスティは、頬に感じた微かな刺激にいよいよその表情を厳しくした。
「……雨だ!」
 エスティの発した言葉が終わる頃には、もう雨はその勢いを強めていた。見る間に木造の船は色を変えてゆき、5人の髪を、衣服を濡らして行く。波は荒立ち、船が大きく揺れた。
「おい。敵さん結構な数だぜ。船が少なくとも四隻は見える」
 ルオの声に、その視線の先へとエスティも目を凝らしたが、肉眼では何も見止められない。
「おっさんどーゆう視力だ」
 軽口を叩くが顔は強張っている。ルオの顔は冗談を言っているようにはとても見えないし、この状況で嘘を言ってもどうしようもないだろう。その間にも雨は勢いを増して行き、いよいよ海がしけていく。
(……引き返すか? だが……)
 どう考えても分が悪い。だが、嵐が来れば、引き返しても安全だとは言えない。だが幸か不幸か、躊躇するエスティの背中を押すように、轟音と閃光が間近で巻き起こり、激しい水飛沫が雨と一緒くたに船に降り注いだ。
「なんだ!?」
「大砲みたいだね。魔法じゃなかった。これじゃシールドを張ってもそんなに役に立ちそうもないな」
 エスティの叫びに、リューンが冷静に応える。
 魔法が栄えていた頃は原始的だった兵器も、魔法の力が衰退した今ではその破壊力は魔法を越える。制御するのも、その力を遠くまで持続させることも、最早魔法よりも確かだ。
「むこうもぼく達に気付いたってことか。あんなもの命中したら、沈んじゃうよね。この船」
 縁起でもないことをさらりとに口にするリューンにいささかエスティは呆れたが、言いにくそうにしたところで事実は事実だ。それは認めないことにはどうしようもない。
「真っ向から戦っても……無事にはすまないな」
 セルティに近いていくに連れ、精霊が騒ぎ、魔道の乱れは増大していく。この中で精霊魔法を使いこなすのは至難の業であるし、敵の数も多い。まして向こうは強力な兵器を積んだ国境警備の軍である。対してこちらは民間の船だ。
「……ピンチってヤツか?」
 呟いたエスティの声を掻き消して、再び大きな轟音と水飛沫が起き、船が大きく揺れた。
「エス……ちょっとヤバいよ?」
「ちょっとなもんか、馬鹿」
 早口でリューンの言葉を切り捨てると、エスティはルオを振り返った。
「引き返すか?」
 問いに、この状況にも全く危機を感じていない様子のルオは、期待通りの言葉を吐いてくれた。
「冗談!!」
「言うと思った」
 この状況では引き返してもリスクは同じだろう。それでも尻ごみしそうになる弱気の部分を、ルオの豪快な声は吹き飛ばしてくれる。胸の中だけでそれに感謝しながら、エスティも強気の声を上げた。
「強行突破する。ついて来たんだから文句は聞かないぞ」
「でも……どうやって突破するの?」
 疑問の声を上げたミルディンに、「まぁ見てな」、不敵に笑って屈みこみ、船の床に手を当てる。
「――動力を、魔導エネルギーに変換。術者の魔力と呼応するようにシンクロ値を調節――」
 呟いた言葉は別にスペルでもなんでもなく、それ自体に意味はなかった。ただ呟きを確実に実行するための、神経集中の手段だ。ほどなくしてシレアのボードと同じ蒼い光がエスティを包み、そしてそれは緩やかに広がると船全体を包み込んだ。それと同時に、急激に船のスピードがぐんぐんと上がっていく。
「きゃあっ」
「おっと」
 急なスピードの変化に、よろけたミルディンをルオが支える。
「しっかり掴まってな。精霊が暴走してるから、調節はできない」
 今度はエスティがとんでもないことをサラリと言った。その言葉に面々が青くなる前に、既に船は信じられないスピードで海を滑り出している。船全体がみしみしと嫌な音を立て始め、皆が表情を強張らせる中、ルオだけが楽しげに叫んだ。
「おーし、ガンガンいこうぜ! 船が壊れたら泳ぎゃいいじゃねーか。ブッ壊れるまで突っ込もうぜ、エスティ!」
 結局のところ、ルオはのんびりと大海原を漂う船旅に退屈していたのである。危険を楽しむようなルオの言葉に、だがミルディンは顔色を変えた。
「あの、わたし、泳げないのです」
「大丈夫大丈夫、俺が連れてってやるよ、姫さ……っと、ミラ」
 それでもルオはおかまいなしに笑いながら、くしゃくしゃとミルディンのブロンドを撫でた。エスティが危惧してアルフェスを見たが、どうやら杞憂のようで、彼には顔を上げる余裕すら無いようだった。さっきからの船の揺れに止めをさされたらしい。
「……向こうにも泳げなさそうなヤツがいるけど」
 アルフェスを差してエスティが言うと、ルオの表情が一点してげんなりする。
「俺はヤローなんか連れて泳ぐ気はねぇぜ」
「……心配せずとも貴殿の世話にはならん」
 どうやら話だけは聞いていたらしい――土気色の顔を上げて、アルフェスが言葉を返す。
「ちなみに、ぼくも泳げないから」
『はぁ!?』
 その間を縫ってのんびりと告げたリューンに、エスティとルオの声がハモった。そして顔を見合わせる。
「……船が壊れるシチュエーションだけはご遠慮願いたい面子だな」
 呟いたエスティを嘲り笑うかのように――
 無情とも言える轟音が、彼の言葉の終わりの方をかき消した。そして、今までで最も大きな揺れが船を襲う。それによって全員がもんどり打って、船のへりに体をぶつけた。
「いってぇなッ」
 叫びながらも、いち早く体勢を立て直したルオが、船から身を乗り出して様子を窺う。
「ヤベぇ、カスってるぞ!」
 言われるまでも無く、そんなことはエスティにも知れていた。船が傾いているのだ。だが――、いや、だからこそ、彼は放出する魔力を強める。
「もうどうせ船は長く持たない! 最大出力で突っ切って振り切る!!」
 傾きはじめて尚、エスティの言葉に呼応するかのように船はスピードを増す。やがて四隻の黒い軍艦が誰の視界にも移り、そしてみるみる近づいてくる。加速された船はあっという間にセルティの軍艦をすり抜けると、尚もスピードを増した。
 だが、すれ違ったその瞬間に、多数のセルティ軍がこちらに乗り移っている。
「くッ」
 魔力の放出はそのままにエスティが剣を抜き放つ。だが、傾き、ゆれる船の上では足場が悪く思うようには動けない。だというのに、どういう平衡感覚をしているのか、セルティ兵の動きに乱れはない。しかし、やはりどういう平衡感覚をしているのかわからないルオが、いつもの軽いフットワークで次々にセルティ兵を斬り払っていく。
 乗り移ってきた兵は少なくはないし、さすがにアルフェスはいつものようにはいかないようだったが、この調子であればどうにかなるだろうとエスティが安堵した――そのとき。

 絶望的な音が、船上に響いた。破損と、エスティの魔力の負荷に耐えられなくなった木造の船が弾ける音――
 そして、あっという間に、船に亀裂が走っていった。