19.友との別れ

 快晴。
 シレアはボードを2階の高さまで浮かべると、ぼんやりと頭上に広がる蒼天を眺めていた。だが、
「シレア〜!」
 呼ばれて下を見下ろす。ミルディンが大きく手を振っていた。
「はあい」
 明るく応えて、ミルディンのいる中庭に降り立つ。ピンク掛かった薄茶の、長い髪がふわりと風に翻った。
「なあに? ミラ」
 尋ねるシレアに、ミラは浮かない顔で口を開いた。
「今日発つって、ホント?」
 訊かれて、シレアも少し寂しげな瞳をした。そして、肯く。
「うん……ごめんね。また、次のエインシェンティアを探さなきゃいけないから」
 セルティや、列強に先を越されるわけにはいかない。この旅は、時間との勝負でもある。
「……でも、折角友達になれたのに……」
「ミラ……」
 俯いてしまったミルディンを、シレアも少しの間悲しそうに見ていたが、やがてためらいがちに口を開いた。
「……あのね。あたしも同じくらいの歳の女友達って、ミラが初めてなの」
「……?」
 顔を上げたミルディンから目を逸らすように彼女に背を向けると、シレアはボードを抱えてゆっくりと歩き出した。
「エスやお兄ちゃんは旅から旅だから。あたしは留守番ばっかだったけど……それでも一つの町に留まることはないから。だからあたしも、ずっと友達が欲しかった。だから、すごく嬉しかったの」
 立ち止まって振り向く。
「……ミラ、ここで別れても、ずっと友達でいてくれる?」
 不安げなシレアに歩み寄り、思わずミルディンは彼女にぎゅっと抱きついた。
「……当たり前よ。私達、ずっと友達よ。遠くにいても近くにいても。だから、いつでも遊びに来てね。困っているときは、力を貸すわ」
「ミラ……」
 ほんの少しの間一緒にいただけなのに、彼女といるときは楽しかった。
 心を通わすことができた。心から、笑うことができたから――
「うん、また会おうね。寂しいけど……でも大丈夫だよ」
 シレアもまた、ミルディンをぎゅっと抱きしめて言葉を返す。
「あたしには、お兄ちゃんやエスがいるし。ミラにはアルフェスさんや、エレフォさん、それに神竜さんも、いるもんね」
「ええ……そうね。私もシレアも、1人じゃないもんね」
 微笑むミルディンを見、ふいにシレアは悪戯っぽい目をすると、体を離して彼女の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、ミラ。前言ってた幼馴染って、アルフェスさんのことでしょ?」
 突然のシレアの言葉に、ミルディンは顔を紅潮させた。
「えっ……な、何、急に」
「えへへ。だってわかっちゃったんだもん。聖域で、アルフェスさんがあなたのこと、ミラって呼んだからさ。あれは、必死で言葉に頭が回らなかったんだろうけど。でも、そう呼んでたことがあるってことでしょ? 王女様を愛称で呼ぶなんて、きっと身分のことなんて知らない子供の頃じゃないかなって」
 腰に両手を当てて、得意げに推理を披露する。
「もう、シレアったら」
「ねえねえ、どうなの〜? 教えてよぉ、ミラってばぁ」
 猫なで声を出すシレアを見て、呆れたようにミルディンが笑う。
 シレアも年頃の女の子だ。側にいるのが兄とエスティだけだから我慢していたのだろうが、本当はこの手の話が大好きなのだろう。
 それを察して、ミルディンは苦笑交じりに答えた。
「……ええ、そうよ。アルフェと初めて会ったのは四歳のとき。と言っても、そんな小さい頃の事なんかそんなに覚えてないし、初めから仲がよかったわけでもないけどね」
「じゃあ、なんで好きな人がいないなんて」
 シレアが疑問を口にすると、ミルディンは哀しげに下を向いた。
「……『騎士』の彼が、嫌いだったから」
 思いもかけない言葉に、シレアがつい声をあげる。
「どうして?! あんなに一生懸命ミラを護ってるのに」
「だからよ! ……何でも自分よりわたしを優先する。命を捨ててでもわたしを護ろうとする。そんな≪王女と騎士≫っていう形式が……主従関係が嫌だった。そんな道を選んだ彼も、≪姫≫なんて呼ばれるのも、全部」
 好きな人がいないと言った、あのときと同じように――吐き捨てるように言う。
「だって、わからないじゃない……わたしが≪ミラ≫だから護ってくれるのか、≪姫≫だから護るのか――」
「ミラ……」
 心配そうに自分を見つめるシレアのムーンライトブルーの瞳と視線がぶつかり、ミルディンはふっと微笑って見せた。
「なんてね。……こんなこと、誰かに言ったの初めてよ。こんな話、誰にも言えなかったもの」
 乳母にもエレフォにも、父にも、母にさえも。
 ――エレフォには気付かれているのだろうが、それでも言えなかった。王位継承権を約束された自分が、一兵卒にすぎぬ彼に想いを寄せているなどということがもし知られたら――引き離されてしまったかもしれない。
 例え父が許したとしても、元老院の重臣たちは決して認めなかっただろう。
「ありがとうシレア。話聞いて貰えて、すっきりしたわ」
 ミルディンは何かを吹っ切ったように晴れやかに笑ったが、逆にシレアは力なくうなだれた。
 王女ということの過酷さを何もしらず、面白半分に聞き出してしまったことに、少し自己嫌悪していたのだ。だが、ミルディンはその肩に両手をおくと、明るく言った。
「心配しなくても大丈夫よ。わたし、本当は――わたしが王女だからっていう理由でもいいから、彼が側にいてくれればいいの。それにね、聖域で、私のことミラって呼んでくれた。昔のこと忘れたわけじゃないって、わかったし……だから、もういいの。幼馴染のアルフェも、騎士のアルフェも、どっちもアルフェだもんね。……あの日聖域で、やっとそれに気付いた……」
「……ミラ」
「シレア達のお蔭ね。本当にありがとう。貴方達のお蔭で、やっとわたし自分が進むべき道が見えたの。……わたし、頑張る」
 そうやって微笑みかける彼女は、最初見た頃よりも大分印象が変わって見えた。
 真面目で、気が強くて、セルリアン・ブルーの瞳に強い意志を秘めた王女様。だけど、いつもどこか切なげで、儚かった。そんな面影は、今の彼女には感じられない。憂いを帯びた笑みよりも、晴れやかに笑う彼女のほうがずっと綺麗だとシレアは思った。そんなミルディンの微笑みに、シレアもまた、最上級の笑みで応えたのだった。



「……もう、行ってしまうのか」
 彼のその言葉は心底残念そうで、思わずリューンは微笑んだ。
「ありがとう。そんな風に言ってくれて、嬉しいよ」
 光に反射する亜麻色の髪が美しい。だが、深碧の瞳は、微笑っているのにどこか哀しげだ。
「シレアが言っていたけど。エスティが、僕たちを巻き込んだことを気にしてるって。もしそうなら、気にしないで欲しいと伝えて欲しい。僕は、感謝していると」
「ありがとう」
 リューンがにっこり笑う。その彼の表情は、先ほどより幾分哀しみの色が抜けたように感じ、ほっとする。
「アルフェス、君は強い人だね。剣だけでなく、心も。……ぼくは、セルティに大事な人を奪われた。ぼくは護りたいと思う人に、何もしてあげられなかったよ。でも君なら、こんな後悔はしないんだろうね」
「…………」
 彼が何を言いたかったのか――彼は的確に読み取ったらしかった。
 だが、彼が言葉を返す前に、リューンはシレアとミルディンの姿を城門に見止め、既に走り出していた。
「お兄ちゃん!」
 リューンに気付き、シレアが手を振る。だが、こちらに向かってくるのがリューンとアルフェスだけなのに気付き、「エスは?」と訊いてきた。
「先に出てるんじゃない?情報集めたいって言ってたし」
 城下町を指して、リューン。
 城下からセルティ兵が撤退したのと、被害が思ったほど深刻ではなかったのとで、城へ避難していた市民も概ね城下町へと戻っている。
「リューン! シレア!」
 丁度そんな会話をしていた頃、黒髪を弾ませて彼は走ってきた。
「町の新聞屋の情報網に引っかかった。またセルティが動くぞ!!」
「ええっ!?」
 シレアの顔に驚愕が走る。「……またセルティなの」、帝国が相手では、何でも一筋縄ではいかない。
「次は、南、レグラス領だ。行くぞ!」
 来たと思ったらすぐに踵を返す。
「判れが苦手なのよ」
 あっけに取られるミルディンとアルフェスに、シレアが耳打ちした。
「別れなんて……寂しいこと言うなよ。また会えるさ」
 シレアの頭をぽん、と叩き、アルフェスは微笑んだ。その笑顔に、シレアがエヘヘ、と笑う。同じ頭を叩かれるのでもエスティとアルフェスとでは大違いのシレアだった。
「色々とお世話になったのに、何もお礼できなくて申し訳ありません」
「お世話になったのはぼくらの方だよ」
 頭を下げたミルディンに、リューンはにっこり笑うと礼を述べた。
「……またな」
 エスティが背を向けたまま、呟く。さほど大きな声ではなかったが、二人にはちゃんと聞こえていた。
(また……か)
 その言葉に口の端を上げる。だが、アルフェスも感じていた。何時の日か、「また」がやってくること。そして、その日はそう遠くないことを。
 そんなある種の予感が、五人それぞれにあったことは――だが誰も自分だけの胸に秘めていた。