新たな任務 5



 酒場の扉を押すとカランと扉についた鐘が鳴った。外はまだ明かりがなくても歩けるが、酒場の中は薄暗い。まだ客の姿はなく、マスターはカウンターでグラスを拭いていた。鐘の音に、マスターが顔をあげる。
「いらっしゃい……なんだ、ガキか」
 笑顔でこちらを見たまではいいが、見るなり彼はころりと顔を変えた。そして、つまらなそうに再びグラスを拭く作業に戻る。構わずライゼスはカウンターまで歩み寄った。
「聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ、坊や。迷子にでもなったか?」
「ノルザの村の吸血鬼の噂をご存知ですか」
 ライゼスの問いに、マスターはほう、と口の端を上げた。
「いくら出す?」
 端的なマスターの言葉に、ライゼスがカウンターの上に金貨を置く。しかしそれを見たマスターの顔つきは、暗がりでもはっきりわかるほど変わった。
「坊や達は何者だ。まさか永遠の美が欲しいわけでもないだろう?」
 警戒のこもったマスターの声に、ライゼスは表情こそ変えなかったが、内心では少々焦っていた。ガルアラでは同様に金を払わされた挙句大した情報は聞けなかったため、ここでも同じだと思っていた。だがマスターの態度を見るに、情報どころかこの件に関して一枚噛んでいそうにさえ見える。
「まさかお前ら……王国騎士か?」
 じろじろと、マスターが怪訝そうに見てくる。ライゼスが慎重に言葉を選んでいる間に、肩を掴まれおしのけられた。セラだ。
「私が聞きたいんだ。ガルアラで、ノルザの村の吸血鬼が永遠の美を与えてくれるとの噂を聞いた。ガルアラよりノルザに近いここなら、詳しい話が聞けるんじゃないかと思って」
「永遠の美を与えられるのは女だけだって話は、ガルアラで聞けなかったのかい? 兄ちゃん」
 確かに綺麗な顔はしてるけどよ、と呆れたようにマスターが言い、慌ててセラが補足する。
「一応、私は女なんだけど」
 セラがそう言うと、マスターは少し驚いたような顔をしながら再びまじまじとセラを見た。不躾な視線にライゼスが少し顔を歪めたが、セラに目で制される。
「まあ、見えなくはないけどよ……」
「だろ? そういうわけでいつも女に見られないからさ、美しくなりたいと思ったわけで」
 途端、マスターは大声を上げて大爆笑した。
「ハハハハッ、兄ちゃん――あ、いや姉ちゃんか。ちゃんと話を聞いてたか? 吸血鬼は美しくしてくれるわけじゃねぇよ。美しい人を美しいままにするだけだ。ガルアラから、とんだ無駄足だったな」
 さも可笑しそうに笑い続けるマスターに、セラはどうしたものかと首を捻った。警戒は薄らいだみたいだが、これでは情報も聞けそうにない。さらに金を詰んでも怪しまれるだけだろう。
 だが、セラとライゼスが結論を出す前に、マスターの笑いは別の声に綺麗に消された。
「わたくしですわ」
 暗がりから現れたもう一人の人物。恐らく、マスターはその人物に釘付けになることだろう。二人の確信を裏切らず、マスターの視界からはもう、セラとライゼスの姿は消えていた。
「永遠の美が欲しいのはわたくしですわ」
 それまで暗がりに隠れて沈黙を守っていたティルが、しなだれかかるようにカウンターに白い手を置き、真っ直ぐにマスターを見据えた。確かにマスターが息を呑んだのが解ると、カウンターにかけたのと反対の手で束ねた髪をほどいてみせる。薄闇でも輝きを放つ白銀の髪が、するりと肩を滑っていった。かつて美姫と称えられた美貌は勿論今も健在で、男だと知るセラとライゼスでも見惚れるくらいだ、知らないマスターは一瞬で魅了されただろう。
「ですから、詳しいお話を聞かせて下さいな。それとも、わたくしでも永遠の美を与えられるには、まだ不足かしら……?」
 問われて初めてマスターが我に返る。夢でも見ているかのようなうつろなまなざしをティルに向けたまま、彼はスラックスのポケットを探った。そして、一枚の紙片を取り出す。
「陽がすっかり落ちたらここへ行きな。ノルザまで運んでやる」
「有難う」
 大輪の花さえ褪せるような笑顔を見せて、ティルの白い指が紙片をつまんだ。その仕草のひとつひとつにまで見惚れながら、それでもマスターは念を押した。
「このことは誰にも言うな。とくに、王国にはな。言えば永遠の美どころか寿命を縮めることになるぜ。――お前らもな」
 ティルを見ているのとはまったく別の目で、マスターがセラとライゼスを一瞥する。こちらに対する疑いは拭えていないのだろう。
「大丈夫ですわ、マスター。騎士は騎士でも、彼らはわたくしのナイト。国とは関係ありませんから。女一人でここまで来るのは、平穏の世とはいえいささか物騒ですものね?」
「あ、ああ。そうだな」
 目を覗きこんで囁かれただけで、マスターの目からは完全に疑念は消えていた。何か魔法を使ったのではないかという変わりっぷりに、セラは我知らず感嘆の溜め息をついてしまう。美とはある意味究極の魔法かもしれない、などとライゼスは思わず考えた。
「では御機嫌よう」
 服の裾を摘んでティルが優雅に一礼する。彼が今纏っているのは、当然ながら男物の旅服だ。なのにドレスに見えてしまうから不思議である。
 無言で促す彼について、セラとライゼスも店を出た。
 
 店を出ても陽は沈みきっていなかった。薄暗い酒場の中よりはいくらかまだ明るかったが、ティルの周りだけ真夜中ではないのかと錯覚しそうなほど、彼はどんよりと肩を落としていた。それに気付いていながら見て見ぬふりをしているのがライゼスで、まったく気付いていないのがセラである。失礼な酒場のマスターのことなど記憶の彼方で、彼女はぱあっと顔を輝かせ、うなだれるティルの肩を叩いた。
「凄いなティル! もういっそ私の代わりに城で姫をやって貰いたいよ」
「か、勘弁してよセラちゃん……」
 セラの声音は揶揄する風ではなく、むしろ切実な色を含んでいて、余計ティルはげっそりした。確かに、ティルにはセラより姫らしく振舞える自信はある。実際王女であるセラは姫らしくなくとも姫だろうが、実際姫ではないティルが姫に見られるのは、よりらしくなくてはいけないのだ。そのための努力を十数年も続けてきたのだ、自信があって当たり前だ。だが今となってはそんな自信はあるだけ虚しい。疲れた声で呟くと、ティルは道の端っこにふらふらとしゃがみこんだ。
「あ、その、冗談だ。すまない。それから、有難う。助かったよ」
その様子があまりに力なかったので、ようやくセラも彼が落ち込んでいることに気付く。取り繕う彼女の言葉に、不本意そうにライゼスも言葉を重ねた。
「今回だけは礼を言っておきます。貴方の機転がなければ切り抜けられなかったでしょうから」
セラと、そして極めて珍しいライゼスの賞賛と感謝を受けても、ティルは腰を上げなかった。というより聞いていないようだ。
「はあああ……何が悲しくて、俺は男に、しかもオッサンに色目を使わなきゃならないんだぁぁぁ……」
首尾よくことは運んだが、彼にとってその代償はあまりに大きかったらしい。計り知れない精神的ダメージにのたうつ彼がさすがに哀れに見えてきて、セラはティルの隣に膝をついた。
「本当にすまない、ティル。女の私が適役だったはずなのに、私に女っけがないばっかりに」
「いや! セラちゃんは可愛い! あのオヤジがおかしいんだ! ああでも、セラちゃんに惚れられても困るから、やっぱこれで良かったんだ! うん!」
セラが詫びると、ティルは唐突に復活した。どうにも聞き捨てならないことだったらしい。一人で釈然としないようにまくしたて、だがかと思えば一人で勝手に納得して何度も頷く。まるでついていけず、セラも曖昧に頷いていると、ティルはまたも唐突に動いた。しゃがんだまま、ぐるりとセラの方に体を向けて、その両肩に両手をおろす。
「でも、やっぱり男に近づくのは精神的に辛いんだよね。だから――」
ふいに、その手に強く肩を押され、不意をつかれてセラは思わずしりもちをついた。そうしてさらにバランスを崩したセラの体を、だがティルは構わずそのまま押し倒す。
「……!?」
「俺を癒して〜」
 硬直するセラを見て、とても楽しげな声を上げたティルだったが、
「何やってんですかッ!」
 間髪入れずにライゼスに引っ張り上げられて、引き剥がされた。襟首をつかまれて、首根っこを持たれた猫のようにだらんとなるが、それでもティルは首を回ずとライゼスを思い切り睨み付けた。
「いいじゃんか! 俺頑張ったのに、少しくらい!」
「ふざけないでくださいッ! それとこれとは話が別です!」
 怒号を飛ばすと、さらなる怒号が帰ってくる。負けじとティルは口を開いたが、本当に破壊魔法を使いかねないライゼスの殺気を感じて閉じた。本気だ。ライゼスは分別があるように見えて、実際キレると見境がない。初めて会ったときからそうだが、それこそ後先考えずに周りのものを破壊しだすので始末が悪い。
「くっ、覚えてろよボーヤ」
 仕方なくそう吐き捨てるだけにとどめると、ティルは仏頂面でライゼスの手を振り払った。ひとまずそれで口論は収まるが、依然二人の間には険悪な空気がぴりぴりと流れ続ける。
「ほ、ほら、それより夕食にしようよ。お腹減っているだろ?」
それを割るように、立ち上がったセラは努めて明るい声を出した。二人の対立で足止めを食うのはご免被りたい。時間の無駄だし、付き合う方も疲れる。無視されるかと危惧したが、それで二人はどうにか睨み合いをやめてくれた。それぞれに逡巡した後、ティルの方が先に答えを返してくる。
「そうしたいのは山々だけどさ、セラちゃん。女性として行くからには、さすがに着替えないと、さ」
そろそろ夕暮れの赤はモノトーンの闇へと色を変えつつある。指定の時刻は曖昧だったが、夕食を取る時間はありそうだった。しかし、ティルはやんわりとそれを否定して、苦虫を噛み潰したような顔でぼそりと呟く。それで、ああ、とセラも声を上げた。
「ちゃんと女装するのか?」
セラに悪気がないのは解っている。解っているが、ティルはなんとなく泣きたくなった。男らしいところを見せたいのに、何が悲しくてまた姫に戻らなくてはならないのだ。だが、それもこれも任務のためだ。それはとりもなおさずセラのためだ。セラのためなら、オッサンに色目を使うこともドレスを纏うことも苦にならない……ちょっとしか。
 そう必死に自分に言い聞かせながら、咳払いして気を取り直す。
「ああ、いや。まあ、そうだけど。でも吸血鬼のところに行けるのは、女じゃないと無理みたいだぜ。行くのは俺とセラちゃんだけでいいのか?」
 腹いせとばかりに、ティルは精一杯嫌味を含んで吐き捨てた。その言葉の意味を察したライゼスが青ざめる。
「ちょっと待ってください。まさか……」
「別に嫌ならいいんだぜ。俺とセラちゃんだけで行くから。むしろ俺はそのほうが断然イイ」
「そ、それは断固却下です!」
 ティルの方が吸血鬼なんかより余程危ない、そうライゼスの目が雄弁に語っている。ティルは肩をすくめると歩き出した。先ほど仕立て屋の前を通った記憶があった。
 ティルのすぐ後をセラが小走りに追い、さらにその後ろを、ライゼスが重い足取りでついてくる。その頃にはティルの機嫌はもうすっかり直っていた。酒場のオヤジやライゼスなどどうでもよくなるほど、楽しいことを思いついたのだ。
「けど、ティル。私は女だってわかってもらえるのかな。また追い返されそう」
丁度そとのきセラがそんな不安を口にして、ティルは彼女を振り返ると笑って片目を瞑った。
「だから、今からセラちゃんも着替えるんだってば。大丈夫、セラちゃんはちゃんと可愛い女の子だよ」
 ティルはもともと、他の者が言うようにセラを男っぽいとは思っていない。むしろ男装していても可愛いと心底から思っているのだが、着飾った姿を見てみたくないといえば、大嘘だ。どんな女も、化粧をしてドレスを纏えば化ける。これを楽しみにしなくて何を楽しみにするというのだろう。
 セラの怪訝な視線を感じながらも、ティルは心の中で吸血鬼に賞賛を送りたい気分になっていたのだった。