温かい。
そのぬくもりは、生まれたての頃、揺り篭に揺られていた頃のよう。そんな、もう覚えていないはずの遠い記憶を手繰り寄せてくれるるような、そんな温かさ。
心地よさは睡魔と一緒に体をすっぽりと包み込むが、ふとその正体を探ろうとしたとき、意識は覚醒に向かった。
――そして。
「……」
目覚めて、その正体を知ると心地よさはだいぶ減退した。
抱き枕のようにこちらをぎゅうぎゅうと抱きしめながら、すぐ側で兄がすかすかと実に幸せそうな寝息を立てている。
勝手にベッドに入るなと言っても、この兄は聞きやしない。だからといって放っておくとこういう事態になっている。嘆息しながら、ティラは爆睡する兄の鼻先に声を掛けた。
「兄さん、朝よ。苦しいから離して」
すると兄はむにゃ、と間の抜けた声を上げ――
「うーん、サーラさん〜」
ますますぎゅうっと抱きしめる腕に力を込める、兄のその寝言に。
ティラの頭の中で、何かの線が派手な音を立ててブチ切れた。
頬がひりひり痛むが、それ以上に心が痛む。
起きてから一度も口をきいてくれない妹に、リゼルは何度目かの哀願を試みていた。
「ティラぁ。そろそろ口きいてくれないと、お兄ちゃん悲しくて死んじゃう」
今日もその美貌で周囲の視線を独り占めのリゼルは、さらにめそめそと泣き続けることでさらに何事かと人目を集めていた。いつもはそれに閉口していたティラだが、今は怒りの方がそれを上回っているので、だばだばと涙を流すリゼルを無視して食事をぱくついている。
「ねぇ、ティラぁ。なんでそんなに怒ってるのぉ」
縋りついてくる兄を邪険に手で押し戻しながら、ティラは兄の問いかけにますます苛立ちを募らせていた。
始末の悪いことには、この兄は寝言を言った自覚がないらしい。
「一緒に寝るくらいいいじゃない〜、兄妹なんだから〜」
まるでわかっていない兄に対し、ティラは苛立ちを露わにするように、飲み干した果汁のカップを音を立てておいた。そろそろ恥ずかしさも限界だ。
「もういい歳なんだからひとりで寝なさい!」
やっと口を開いてくれたかと思えば飛び出したのは怒号で、リゼルはしゅんとした。だって、と口を尖らせ拗ねて見せる兄をもう一度ギロリと睨みつけて黙らせ、また苛立ちまぎれにベーコンにフォークを突き立てる。
「いかがわしい夢みるくらいなら、他の女の人と寝ればいいのよ」
そうしてぼそりと漏らした呟きに、さーっとリゼルの顔色が変わっていく。
「どど、どーして知ってるの。もしかして双子のシンクロ?」
「私と兄さんは、双子じゃないでしょう。別にシンクロしてなくても、兄さんはバレバレなの」
半眼で呆れた声を上げると、だがこちらの怒りは収まっていないというのに、青くなった兄の表情は一転、満面の笑みになる。
「俺のこと、解ってくれてるんだねっ」
「……っ」
ばか、と口をつきかけた悪態は、無垢な笑顔の前に霧散する。その代わりに、ティラは顔を背けると、空になったカップを突きつけた。
「おかわりっ」
「はーい!」
そこに赦免の空気を見て取ると、リゼルは尻尾でも振りそうなほどの軽い足取りで、カップを持ってドリンクコーナーへと向かって行った。羞恥も限界だが、それ以上に怒り続けるのも限界で。
その背を見て、ティラは相好を崩した。
そして食事を再開しようとした瞬間、フォークを持つ手がぐいと掴まれた。怪訝な顔をして、振り向く。もう兄が戻ってきたのかと思ったのだが、視界に入ったのは全く見知らぬ青年だった。
「食事中に失礼。貴女に頼みがあるのです。我が主の元へ」
振り払おうとした手はびくともしなかった。それもその筈で、こちらは年端もいかぬ少女であるのに対し、相手は大人の男だ。それも長身で、細身ではあるが筋肉はがっちりしているのが服の上からでも解る。
「……連れがいますので」
力尽くでと言われれば成す術などない。それでもティラはぴしゃりと取り付く島のない声を上げた。それに対し、青年の態度は変わらなかった。即ち、怒るでもないが諦めてくれる風でもない。
「申し訳ないが時間がない」
声は穏やかだったが、それは力尽くでというのとなんら変わりのない宣告だった。ぐい、と腕がひっぱり上げられ、手から落ちたフォークが皿に当たってかしゃんと音を立てる。だが、食事時で混みあう食堂で、そんな音を聞きつける者も、少女が一人拉致されそうな事態に気付く者も居そうにはなかった。
――たった一人を除いて。
人ごみを縫って飛んできたカップが、青年の頭を直撃して果汁を撒き散らす。致命傷になるはずもないが存在を主張するには十分だったようで、果たして後頭部をさすりながら、青年は振り返った。
「俺の妹に触れるんじゃねぇよ」
カップを投げた格好のまま、切れまくったリゼルが氷点下の声を紡いだ。