既に、積もった塵は風が運べないほどの量になっている。
これではそのうち、塵で兄の姿が見えなくなってしまうと思った瞬間、ティラの背中を冷たいものが走った。
「……うおおおああああ!」
ずっと一緒にいたのに全く聞き慣れない兄の雄叫びが黒い夜空に吸い込まれていき、そして塵がまた増えてゆく。だがいくらその量を増やしても、キメラは後から後から姿を現す。どこからともなく、いつまでも。そうして次々とリゼルに牙を向いていく。
キメラの再生力はサーラが述べていた通り半端ではなく、手を切り飛ばした程度では一時凌ぎにしかならなかった。すぐに再生して、息つく暇もなく再びその爪を閃かせる。それをリゼルの刀が両断し、その間にも上から迫る顎を身を捻って避け、そのついでに一緒に回転させた刀が横から迫るキメラを薙ぎ、そして目の前で縦に刀を構えた瞬間、勢いまかせに突っ込んできたキメラが真っ二つに裂かれながらリゼルの両隣をすり抜け、塵になる。
彼らの攻撃は休まることがなく、リゼルは体力を消耗しないように最小限の動きでそれを捌いていた。だがその集中が途切れることがない限り、疲労は蓄積される。兄の頬を伝うのは汗ばかりでなく、赤いものも目立つようになった。
「――兄さん!」
ついにティラは叫んだ。
声をかければ集中を切らすことに繋がり、隙へと変わるかもしれない。そう危惧したから今まで見守ったが、限界だった。
「兄さん、もうやめようよ! 逃げよう! これじゃキリが無いわ!!」
リゼルがそれで隙を作ることはなかったが、大きく吼えると周囲のキメラを一掃した。そこから次の大群が押し寄せる一瞬のタイムラグに、兄はこちらに視線を向けた。
「サーラさんの話だと、発生源をどうにかすればこいつらはどうにかなるみたいだった。もう結構時間が経つから、そろそろ何とかなるよ」
「……そんなの!」
傷を負いながらなお、兄の声は間延びしていてティラの苛立ちを増幅させる。
「そんなの本当かどうかわからないじゃない! 本当だとしても、あの人が戻ってくる保証がないわ! 失敗して逃げたかもしれない。ううん、兄さんを嵌める気だったかもしれない!」
「俺を嵌めて、サーラさんにメリットがないでしょ」
「誰かに頼まれたかも――」
言いかけてティラは口を噤んだ。爪が皮膚を突き破るくらい拳を握り締める。兄を嵌めてメリットになる人物がいるかもしれないと考える自分に嫌悪感を覚えた。
「疑ったって自分が辛くなるだけだよ、ティラ。信じて自分が傷つくだけならいいじゃない。約束を破って誰かが傷つくほうが痛いよ」
俺はね。
そう言って笑う笑顔が、塵の向こうに消える。
だけど、それで堪えた涙を流すことができた。それを兄に見られれば、馬鹿みたいに騒ぐに決まっているから。
馬鹿みたいに心配するから。だから泣かない。
心配させたくない。自分のことで煩わせたくない。あの気が抜けるような笑顔で、ずっと兄には笑っていて欲しいから。だから。
「私は、私はお兄ちゃんがいなくなることが、一緒にいられなくなることが、一番痛いよ……!」
塵を手で掻き分けて、兄の姿を探す。そして、視界が晴れたと思った瞬間、また曇る。顔を上げると、眼前にキメラの牙があった。
悲鳴すら、上げる暇はなく。
「ティラ!!!」
咄嗟に避けたキメラが自分の横を通りすぎるのにリゼルもまた戦慄していた。その牙がどこに向くか予想できたからだ。とっさに後ろに向けた刀は、意に反してとびついてきたキメラを薙ぎ、勢いと速さを失う。届かなかった刃先に失望する暇はなくて、ほぼ反射的にリゼルは刀を投げた。真っ直ぐにそれを背に突き立て、どう、とキメラの体が地に落ちる。その向こうに、妹の無事な姿を見て、だけど安堵するにはあまりに早計な状況だった。
背に刃を立てたまま、キメラが起き上がる。だが、本当に危機なのはリゼルの方だった。
ティラの双眸に、丸腰でこちらに意識を全集中させた兄に一斉に飛び掛るキメラが写る。
「お兄ちゃ――――」
言葉は声にならない。声にしている暇もない。
なんとかしなければ。その思いだけで手を翳す。
小さな力では何にもならない。焼き払うくらいの大きな力。
その一瞬、膨大な量の情報が頭にめぐった。
書物から得た魔法の知識。現代魔法の定義。その具現の方法。そしてそれに必要な力。
サーラが翳した手から迸った炎。そして口にした呪文。異なる定義と、桁外れに強い力。彼女は何と言っていた?
『我 が 御 名 に お い て 、 命 ず !』
闇夜を塗り替える光のスパークに、サーラは反射的に目の前で手を翳した。
それと同時に、キメラが複数、こちらに向かって襲い掛かってくる。それは、自分より強い力を持つ存在が現れたことを意味した。
「この光――?」
怪訝な声を上げながらも、翳した手から生まれた炎がキメラを屠る。
そうしながら、必死で駆け戻った場所には、倒れたリゼルと、彼に寄り添うティラの姿があった。
「ティエラ、何が――」
「来ないで」
恐る恐る声をかけた先で、ティラがこちらに向けて手を翳した。
「お兄ちゃんを傷つけるものは私が許さない」
瞬間、凄まじい光が彼女を包む。それに飲まれながらも、サーラは冷静を繋いだ。
ティラを包む光の奔流は、一部分だけを避けている。それが視えたから冷静になれた。
「あった……」
やはり、キメラの群れはあえてポイントを避けていた。群れればそこにポイントがあることを示すと考えたからか、或いはただの偶然か。だがそれを考えて結論を出すのは夜が明けてからでも遅くない。それよりやらねばならないことがあった。
「ティエラ、手を下ろせ。私はお前の兄を助けたい。このキメラを消して、リゼルの傷を癒せるのは私だけだ。聡いお前なら解るだろう」
それでもにらみ合いはしばし続いたが、その間に空間が歪んでキメラを生み出す。ティラとサーラの両方の力に触れてそれはすぐに消えたが、どちらの力もそう持続するものではない。既にティラは激しく肩で息をして、髪は汗でべったりと肌にはりついている。
それからすぐに、ティラを包む光は消えて、それと同時に彼女も兄に折り重なるようにして倒れた。サーラが安堵の息をつき、そしてすぐに手を翳す。
『汝、虚無の海にて眠れ。物質消去』
サーラの唇から歌のような声が紡がれると、今まさに彼女に爪を立てようとしていたキメラが黒い霧に飲まれて消えた。
そして後には、夜の闇と静寂だけが残った。