スイート・スイート・パイ



 ひとしきり落ち込んでいたロロナだが、ホムもアストリッドもいなくなっていることに気が付くと、涙でぐちゃぐちゃになった顔を服の袖で拭った。どれくらい泣いていただろう。辺りはすっかり暗い。
「……ホムちゃんと師匠、どこ行ったんだろう……」
 泣き疲れて重い体を引きずりながら、ロロナはアトリエの中を探したが、二人の姿は見つからなかった。
「うー……まあ師匠が急にいなくなるのはいつものことだけど」
 ホムを連れてどこかに遊びに行ったのかもしれない。それも珍しくはない話だ。今は特に依頼も立てこんでいないし、不都合もない。
「……依頼」
 否、ひとつだけあった。今日ステルクに渡す筈だった品だ。
「……明日、直接持っていって謝ろう。悪かったのは、約束してたのにアトリエを空けちゃったわたしだもんね。ちゃんと謝らなきゃ」
 そう決めると、やることがはっきりした分、少しだけだが元気が出た。とにかく、今日はもう寝よう。そう決めてケープを外したときだった。
 バタン、と激しい音を立てて、アトリエの扉が開く。
「きゃあああ!」
「どうした、何があった!」
 突然のことに悲鳴を上げたのだが、その要因である方にどうしたと問われて、一瞬ロロナは混乱した。だがその声に聞き覚えがあることに気付いて、反射的に抱えていた頭を上げる。
「あ、あれ? ステルクさん?」
 きょとんとした顔で相手を見ると、彼の方も同じように、きょとんとしていた。それこそ、鳩が豆鉄砲を食らったような。
「い、いや。君のところの、あの少女に、大変なことが起きたから至急アトリエに来るようにと言われ……」
「ええっ!? た、大変なことってなんですか!?」
 そんなことを言われて、ロロナも慌てて辺りをきょろきょろと見回すが、何も変わったところはない。
「あの……ごめんなさい。せっかく来てもらったのに、何もない……みたいです」
「ああ、いや、無事ならそれでいいんだ。君が謝ることじゃない」
「……ううん、謝らなきゃいけないんですっ!!」
 何事もなかったと分かったステルクは落ちついた声を上げたが、ロロナは声を張り上げた。
「今日はごめんなさい!! わたし、約束してたのにでかけちゃって……!」
 ステルクはステルクで、昼間訪ねられなかったことを詫びようと思っていたのだ。それが逆にロロナの方に謝られてしまったので、面喰って言葉が出ない。
「じ、実は……いつも依頼してもらってるお礼に、パイを焼こうと思ってたんです。朝まで依頼をやってて、昼前に小麦粉切らしてるのに気付いて……慌てて買いにいったけど、イクセくんのお店でも小麦粉が切れてて。でも少し待てば今日入荷するはずだからって言われて、それで待ってたら遅くなっちゃって……」
 それを聞いて、自分が見たのはその場面だったのだと、ステルクはようやく理解した。ロロナがサンライズ食堂にいたのは、自分のためだったのだと。
「ご、ごめんなさい。言い訳なんかして」
「いや、顔を上げてくれないか。謝るのは私の方だ。勝手な思い込みで……」
「……え?」
 ロロナが不思議そうに首を傾げて、ステルクは慌てて咳払いをした。まさか、昼にエスティに愚痴ったことをそのまま話すわけにもいかない。それはあまりに気恥ずかしかった。
「とにかく、昼に訪ねると言ったのに、来られなかったのは私の方だ。やはり君が謝ることではない。本当に済まなかった」
 ステルクが深々と頭を下げると、どさりという音がした。顔を上げると、ロロナがその場に座り込んでいる。
「ど、どうした!?」
「あ……ごめんなさい。なんだか、ほっとしちゃったら、腰が……。嫌われちゃったと思ったから……」
「何を言っているんだ。そんなことで嫌うわけがないだろう」
 手を差し伸べると、ロロナがためらいがちに手を伸ばしてくる。
「だ、だって師匠が……」
「わかった。大方あいつに何か吹きこまれたんだろう。まったく……いいか、アストリッドの言うことは基本的に信用するな。私も何度も酷い目を見ている」
「そりゃあ、いつもは、基本的に信用してないですけど……」
 がたん、とアトリエの奥で妙な物音がしたが、このときの二人には届いていなかった。
 ステルクの手を取って立ち上がると、ぱんぱんと膝を払う。
「すみません。依頼の品、今持ってきますね」
「今でなくとも構わない。急ぎのものでもないしな」
「でも、せっかく来てもらったんだし……それと……もし、もしステルクさんさえ良ければですけど」
 そこでロロナは一度言葉を止めた。だが、意を決したように、再びステルクを見上げて口を開く。
「パイを焼くんで……食べて行ってもらえますか?」
 長居するには遅い時間だ。だが、せっかくのロロナの申し出に、ステルクは甘えることにした。
「では、ありがたく頂くとしよう」
「はい!」
 ぱぁっとロロナの顔に笑みが広がる。それを見て、ステルクもいつもの仏頂面を和ませた。だがそのとたん、ロロナは俯いてしまう。
「……? 何か」
「い、いいえ! なんでもないです! そっ、それじゃ、すぐに作りますから、ステルクさんはこっちで待ってて下さいねっ!」
 ぐいぐいと背中を押され、椅子に座らされる。何かまずいことをしたかと考えてみるが、何度考えても思い当らなかった。エスティに言われたばかりの『何が合っても女の子に絶対にコレはやってはイケナイ10条』にも触れていなかったはずだ……
 ぱたぱたとパイを作りに戻るロロナの足音を聞きながら、考えあぐねるステルクであったが。
「ふふん。当ててやろう。おおかた、あの食堂の少年とロロナが仲良くしてるのを見て嫉妬に狂い、ロロナとの約束をすっぽかしたというところだな!」
「全然違うわっ!!」
 突然気配もなく真横に現れたアストリッドに、ステルクは辛うじてそれだけ突っ込んだ。
「ん、そうか? 間違いないと思ったのだが」
 悪びれずアストリッドが腕組みしてそうのたまい、ステルクはどうにか冷静になるよう努めると、居ずまいを正した。
「何をどうしたらそうなるんだ。大体、お前だろう! 私が嫌っているとかなんとか、ありもしないことを彼女に吹きこんだのは」
「むう、それはまあ、おろおろする可愛いーい愛弟子の姿を見てみたいなーなんていう、純粋無垢な出来心のためにな……」
「そういうのは純粋とも無垢とも言わん! どちらかと言えば極めて不純だ!」
「そう怒るな。だから悪かったと思って、ホムにお前を呼びに行かせたんじゃないか」
「何だと!? あれもお前だったのか! 人がどれだけ心配したと……!」
 どこまでも悪びれないアストリッドの態度に、取り戻した冷静もどこへやら、声を荒げてステルクが椅子を蹴る。だが――
「お待たせしましたぁー! できましたよ、パイー!! 自分で言うのもなんですがこれは自信作ってうわぁ、師匠!? どこから湧いてきたんですか!?」
「こら、人をウジ虫か何かみたいに言うんじゃない! ……しかし、言うだけあって旨そうなパイじゃないか」
 アストリッドが舌舐めずりし、慌ててロロナはティーセットとパイを乗せたトレイを後ろに庇った。
「ダメですよぉ! 師匠の分はありませんからー!」
「固いことを言うんじゃ――、ロっロロナ、お前後ろに……!」
「えっええっ!? なんですか!?」
 不意に真顔になってわなわなとアストリッドがロロナを指差す。ステルクが止める間もなく、反射的にロロナが後ろを向いたその隙に、アストリッドはトレイに並んだ二つのパイのうち、一つをまんまと手に入れていた。
「うーん、これは至高の一品だな」
「あああああーーーっ! わたしのパイ!」
「それでは、邪魔者はこれにて退散するとしよう。では、せいぜいゆっくりしていくがいい」
 パイを咥えたまま、アストリッドがすちゃっと片手をかざして挨拶する。
「もう、師匠ったら! ……でも、良かった、一つは残って。はい、ステルクさん」
 散々翻弄されはしたものの、伊達に長くアストリッドの弟子をしてはいない。すぐに気を取り直し、ロロナはステルクの前にパイが乗った皿を置いた。
「だが、君の分が……」
「わ、わたしはいいんです! 元々ステルクさんのために作ったんだし……、い、一緒に食べれたらいいなーなんてちょっと思ってただけで」
「私も、その方がいい」
 皿と一緒に出されたフォークを取ると、目の前のパイを半分に割り、空になったロロナの皿に乗せた。ロロナは一度目をぱちくりと瞬かせ――そして、嬉しそうに微笑む。

「ほう、気の利いたことができるようになったじゃないか」
 退室したと見せかけて物影から見ていたアストリッドが、それを見て感慨深げに呟いた。
「グランドマスター、出歯亀ですか」
「むう、どこでそんな言葉を覚えたんだ、ホムよ」
 パイを咀嚼しながら、アストリッドが問いかける。
「グランドマスターに教わりました」

 アトリエの夜は、優しく更けて行く――。
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