夜明け前 4

 学校へ行かないと、こんなにも1日が暇だとは思わなかった。何しろ1人では、剣の練習もできない。
 だが、シアルフィ城に帰れば、どっちみちそれが当たり前になるのだ。
(だったら、今のうちに慣れておいた方がいい)
 胸の中だけで呟いて、そして実際に溜め息をつく。
 士官学校へ行くことをやめてから、エスリンは一日中、部屋で何をするでもなく過ごしていた。兄には帰国準備と言ってあるが、実際には彼女のすることなどほとんどなかったので、エスリンは暇をもてあましていた。
(でも、それも今日までね……)
 ベッドへと倒れこむ。そう――
 帰国の日はもう、明日に迫っていた。
(明日――)
 明日。そう考えた途端に、長いと思っていた一日が、急に短く感じられた。
「明日だなんて」
 エスリンは立ち上がった。すると、もうじっとしていられなかった。
(お別れも言えないなんて――――嫌だ!)
 気付くと、駆け出していた。

 陽の光の差す前――――夜明け前。


 結局、帰国を伝えにきてからというもの、一度もエスリンは学校に顔を出さなかった。シグルドの話では、明日朝早くに発つというのにだ。
「……はあ」
 溜め息をつくキュアンを、エルトシャンはいかにもうっとうしそうに一瞥した。
「何回溜め息をつけば気が済むんだ? まだ夜も明けてないのに本日237回目。付き合いきれん」
 大げさに言って、エルトシャンはくるりと踵を返した。
「俺は寝なおすからな」
 一度バイロン卿の元へ戻るというシグルドを、2人で送り出したところだったのだ。もっとも、今日中に再びこちらに顔を出すとのことだったが。
 宿舎に戻っていくエルトシャンを見ながら「はあ……」本日238回目(計・エルトシャン)の溜め息をつく。ぼんやりしたまま、キュアンは中庭の方へ歩き出した。
 
 初めて会ったのは、いつだったか。

 最初はそれとは知らなかったから――士官生の中に紛れ込んでいるなんて知らなかったから、いつが最初だったのかはわからない。だが、そのうち何度か手合わせするようになって――

 思い返しながら、キュアンは中庭の奥の練習場のもっと向こうの林へと歩を進めた。

 お互い初めて顔を合わせたのは――

「キュアン様!」
 
 キュアンは一瞬、我が耳を疑った。
「……エスリン」
 夜を退ける光が、2人にもやがて届く。
 夜明け。
「どうして、ここに? ――いや、そんなことはどうでもいい。もう会えないかと思っていたんだ。いや、そうなれば、シアルフィまで押しかけようと思っていた」
「…………」
 何か応えたかったが、どうしても言葉が出ない。動悸がして、エスリンは俯いた。顔を上げているのが辛かった。だが。
「私と共に、レンスターへ来てくれないか」
 唐突にキュアンが口にした言葉は、思いもかけないもので――エスリンは何を言われたのか直ぐには理解できなかった。
 その言葉を頭の中で何度も何度も反芻し、そして、ゆっくり顔をあげる。
「……え」
 それでも、何かの間違いだと思った。それとも、キュアンが冗談を言っているのか、からかわれているのか。だが、見上げた彼の顔は真剣そのもので、曇りなくまっすぐにこちらを見つめてくる真摯な瞳を、だが見つめ返すことができない。
「で、でも」
 嬉しいのに、嬉しくて仕方ないはずなのに、口から出るのは逆説の言葉だった。だが、その先を言うこともできない。顔が熱くて、真っ赤になっているのが、自分で解る。それがひどくみっともなく思えて、エスリンはまた俯いてしまった。
 だがそれでもキュアンは、彼女から視線を外さなかった。いつもそうするように、寂しげに笑ったりもしない。もう退かない。
「君が私を、どうしてもレンスター王子としてしか見てくれないなら……、君の騎士としてのプライドを傷つけるというのなら。私は身分も肩書きも捨てる」
 断言した彼に、エスリンは顔を上げた。今度こそ、その彼のまっすぐな瞳を見たとき――エスリンは、自分の中の何かが壊れてゆくのがわかった。でも、壊れたのは騎士の誇り(プライド)ではない。
 自分の中の意地を張っていた、無理をしていた偽りの心。
 エスリンは真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。
「貴方の……気持ちを聞いてません。聞かせて下さるまでは、行けません」
 見つめた先の、キュアンの双眸に驚きの色が宿る。それに気付いたエスリンが、意地悪く微笑んで見せた。
 公女でありながら、騎士でありたいと願い、男装してまで士官学校に潜り込んでいたじゃじゃ馬娘の、少年のような微笑。それが何より彼女らしくて、キュアンは驚きを微笑みに変えた。
 そして、その愛しい少女の小柄な身体を、抱き寄せ、強く抱きしめた。
「愛してる、エスリン。ずっと私の傍に居て欲しい」
 柔らかな朝の光が、木々の間を縫って2人に届く。その光に負けないくらいの眩しい笑顔を浮かべ、愛しい人の腕の中で、エスリンが頷く。

 光は、いつまでも優しく2人を包み込んでいた。
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