夜明け前 1

 暗闇の空を、生まれ来る朝の光が少しずつ紐解いてゆく。夜明け。
 朝もやの濃い森を突っ切って、少女は走った。
 別段、少女に急ぎの用があるわけではなかった。つまるところ、走る必要もなければ、近道だからとて足場と視界の悪い森を突っ切る必要もなかった。街道を、歩いていけばそれで良かった。
 だが、彼女は走っていた。理由を聞かれれば、少女にも答えられない。理由などなかった。否、考えたくなかった。だから走っているのだ。だとすれば、それが答えだった。考えたくないから、ただ、がむしゃらに駆けている。
 考えたくなかった。身体を休めて、思考をめぐらせれば――きっと、引き返してしまうから。

 既に何度もそれを実行してしまいそうになっている自分を叱咤しながら、少女はただひたすらに、駆けていった。



 その日彼は、なぜか早く目が覚めた。
 日も昇っていないのを見て、寝なおそうかとも思ったが、やめた。どちらにしろ半刻も経たぬうちに起こされるのだし、別段朝に弱いわけでもないからだ。
 彼は起き上がるとカーテンを開けた。やはり、まだ暗く、外の様子は伺いにくい。――が。
「あれ?」
 窓の外に見覚えのある人影を見つけ、彼は首をかしげた。だが、見えたのは一瞬で、あとはいくら目をこらしても朝もやが邪魔をするばかりである。
 彼は嘆息すると、明るい茶髪の髪を手早く整え、外套を羽織って部屋を出た。
 春になったとはいえ、外はまだ寒い。早朝なら尚更だ。
 中庭に誰もいないのは時間のせいだけではなく、その寒さ故かもしれない。ここが普通の士官学校であれば、それでも早くから自主練習に励むものもいそうなものだが、"高貴な御身分の方の学校"では、そんなものはただの"奇特な奴"だ。
 寒さから身を護るように外套を押さえながら、彼は人影の見えた方へ歩いていった――聞き覚えのある声が自分を呼び止めたのは、丁度そのときだった。
「キュアン様?」
 同時に、彼よりも少し年下の少女が姿を現す。薄暗さのせいでよくは解らないが、彼女が驚いたような顔をしていることと、自分の見知った人物であることは知れた。
「エスリン。やっぱり君だったのか」
 少女がうなずくのをみて、彼――キュアンは、端正な顔に微笑みを浮かべた。それを見て、エスリンと呼ばれた少女は少し顔を赤らめたが、そんな細かい表情の変化までは、朝もやに隠れてキュアンには解らない。
「こんな早くにどうしたんだ? また剣の稽古に紛れるつもり?」
「いえ。今日はただ、兄上にお伝えすることがあって」
 言われてみれば、今日のエスリンはいつもここに来ているときのような軽装ではなかった。彼女にしては珍しく、フレアーのワンピースと公女らしい格好をしている。
 そちらの方が、いつもの男のような服装よりも似合っているとキュアンは思った。
「シグルドに用なら、呼んでこようか?」
 エスリンの兄、シグルドは、自分の親友でもある。キュアンは気軽にそう言ったが、エスリンは首を横に振った。
「後でいいです。きっとまだ、お休みになっているでしょうから」
 そうだな、とキュアンもうなずく。
「でも、それならどうしてこんなに早く来たんだ? てっきり急ぎの用かと思ったが」
「それは……何となく早く目が覚めちゃったから……」
 その質問に答えることができず――いや、答えは解っている。しかし、言うことができず――エスリンはごく平凡な答えを返した。そんなエスリンの胸中など知る術もなく、
「ああ、私もだよ。でもさすがに朝は冷えるね……あ、寒くはないかい?」
 笑いながら同調すると、キュアンは自分の外套を彼女にかけてやろうとした。だが、その手はひどく驚いたような顔をしたエスリンに掴まれて、途中で止まった。
「私などに気を遣わないで下さい。これではキュアン様が風邪をひいてしまいます!」
 そんな彼女の物言いに、手を途中で止めたままキュアンは溜め息をついた。
「気を遣っているのは君のほうだろ? ……それに、"様"は要らないと言ったはずだ」
「そうは参りません! 私とてシアルフィの騎士の一員。呼び捨てにしては不敬にあたります」
「最初に会ったときは、普通に呼んでくれたじゃないか?」
「そ、それは、貴方がレンスターの王太子だなんて、知らなくて」
 突如エスリンは言葉を止めた。キュアンの笑みが寂しげになったような気がしたからだ。だが、彼女が言葉を止めたときには既に、いつも通りの笑みに戻っていた。
「君らしいよ」
 ぽん、と彼女の頭の上に手を置き、笑いを含みながら声をかける。
「明日も来るんだろ? 士官生に紛れて、剣の稽古」
「あ……それは」
 エスリンは少し口ごもった。そして、そのまま言葉は途切れざるを得なかった。
「エスリン?」
 2人共にとって聞きなれた声が、エスリンの名前を呼ぶ。
「兄上!」
「シグルド」
 2人が声のした方を見ると、エスリンの兄にしてキュアンの親友――シアルフィ公子シグルドが、薄闇の向こうからこちらに向かって歩いて来るところだった。
「お、キュアンもいるのか。朝っぱらから2人でデートかい?」
「兄上ッ!!」
 真っ赤になって、エスリンが非難の声をあげる。
「私は兄上に、父上からの伝言を伝えに来ただけですッ!!」
「冗談だって。そんなに怒るなよ」
 怒鳴る妹を、困り顔でシグルドがなだめる。シアルフィの公主とその息子は、実はこの娘に頭が上がらない。それを知るキュアンは、2人を見て可笑しそうに笑った。
「キュアン様! 笑い事じゃありません!!」
「ははは……じゃあ、私は席を外させてもらうよ。じゃあシグルド、また後で」
 言って宿舎の方へ帰っていくキュアンを、エスリンはしばし名残惜しそうに眺めていた。だがそれを兄が面白そうに見ているのに気付いて、エスリンは咳払いをすると、兄へと向き直った。何事か言おうとする彼女を遮って、シグルドが先回りの言葉をかける。 「で、なんだい? 父上からの言伝って」
 うまくはぐらかされたのだと解ったが、深追いされるより幾らかましである。敢えて流されてやることにして、エスリンはシグルドの問いに答えた。
「……そのことなんですけど。少しお時間を頂けますか?」
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