夜明け前 2

「イザークへ遠征? グランベルが?」
 兄が反芻した言葉に、エスリンはうなずいて見せた。
「ええ。それで帰国なさるそうです。もちろん、兄上と私も」
「そうか、帰国か……」
 懐かしいシアルフィの情景が、シグルドの脳裏をかすめる。
「寂しくなるなあ」
「ええ……」
 本当に寂しそうにエスリンが同意したのを見て、シグルドはにやりと笑った。
「キュアンと離れるのが?」
「兄上!!」
 いちいち顔を紅くする妹に、笑わずにはいられない。爆笑しているシグルドに、エスリンは苛立つ様子を隠しもせずに、怒号に近い声をあげた。
「からかわないで下さい! 第一、キュアン様はレンスターの王太子なのですよ? 私なんかが……」
 威勢がよかったのは最初だけで、エスリンの言葉は尻すぼみに小さくなる。そんな妹の様子に笑いこそおさめたものの、シグルドは相変わらず能天気な声をあげた。
「なんだ。そんなことを気にしていたのか? それなら、お前だってれっきとしたシアルフィの公女じゃないか。釣り合わないなんてことはないさ」
「でも、私は公女である前に、シアルフィの騎士です! 護られているだけの公女ではなく、私が父上や兄上をお護りすると決めたのです」
 だからといって、公女という立場がなくなるわけでもなかろうに、とシグルドは思うのだが、気難しい妹はそんな言葉では納得しないのだろう。苦笑しながら、シグルドはその話題から離れることにした。
「まあ、それは置いといて、だ。いつここを発つと、父上は仰っていた?」
 咳払いをひとつして、冷静さを取り戻しながらエスリンは答えた。
「来週にも国へ戻ると」
「急だな」
 エスリンもうなずく。
「言づてはそれだけです。このことを、兄上に伝えておくようにと……お引止めしてしまってすみませんでした」
「ああ、確かに聞いたよ。……さて、来週発つなら、それまでに1度はエルトシャンを負かせておくかな」
 ここにいる間、色んな者と何度となく練習試合をしたが、シグルドは1度もエルトシャンに勝ったことがなかった。決してシグルドの剣の腕が弱いわけではない。いやそれどころか、エルトシャン以外の相手には、ほとんど黒星を経験したことはなかった。それだけに、このままエルトシャンに勝ち逃げされるのは悔しい。というのは建前で、いつも自信満々なあの不敵な彼をぎゃふんと言わせられたらどんなに面白いだろうか、というのが本音なのだが。
 そんなことを考えながら立ち上がったシグルドに、エスリンも倣った。
「それでは、私はこれで失礼します」
「なんだ、もう帰るのか? 珍しいな」
 意外そうな声を上げるシグルドに対して、エスリンは少し哀しげに笑った。
「はい。帰国の準備もありますし……、ここに来るのは今日で最後にします」
 これ以上ここにいては、私は帰れなくなってしまうから。
 それを言うのは心の中だけにしておいた。
 口に出してしまってもまた、ここを……いや、"彼"の元を離れられなくなってしまうだろう。
 気をぬけば泣き出してしまいそうだったが、エスリンは無理に笑顔を保った。
「では、失礼します。キュアン様とエルトシャン様に宜しくお伝え下さい」
 そう言って退室する妹を、シグルドは溜め息をつきながら見送るしかなかった。
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