カラカラと自宅の玄関を開け、ただいまと呟く。今日はバイトは休むと言ってあるので、店ではなく自宅に送ってもらっていた。――店に行かなかったのはそれだけが理由ではないのだけれども。
今からでも手伝いに行こうかどうかを迷っていると、ふいに気配を感じた。振り向くと、茶の間の入り口から末妹の花子(かこ)が首だけ出してじっとこちらを見ている。
「……何よ」
「今のスーツのお兄さんたち、だあれ」
ぼそっと花子に呟かれ、莉子は溜め息をつくと屈んでスニーカーの紐をほどいた。窓から見ていたのだろう。
家に上がると、莉子はウエストポーチから財布を出して、そこからさらに五百円玉を取り出した。
「お父さんには黙ってて」
「千円」
それを妹に差し出しながらお願いすれば、すかさずそんな言葉が返ってくる。まだ小学生のくせに人の足元を見るのがうまい。
仕方なく千円札を取り出すと、「まいどありー」と妹は小悪魔の笑顔を見せた。
「しくっちゃったなぁー」
妹に取られた分を取り戻す為にもバイトには行きたかったが、すっかりやる気が失せてしまった。結局店に行くのはやめ、そのまま部屋に戻ると自分のベッドにボスンとダイブする。狭い家なので一人部屋などという贅沢なものはなく、六畳の部屋を姉妹三人で使っているので、自分のテリトリーはベッドの上だけだ。
もそもそと仰向けになると、莉子は携帯を開いて電話帳を呼びだした。カーソルを送って「さ」の行を選択すると、一覧に「佐藤刑事」が現れる。けれどそこで莉子は携帯を閉じた。
真夏達に店の方へ送ってもらわなかったのは、実の所、父親に見られたくなかったからだ。連続痴漢と池本兄弟の事件のときに首を突っ込んだことを父に話したところ、予想外の大目玉をくらったのである。店以外では二度と真夏達に関わらないようにと強く釘を刺されていた。
それでも内海教師の世話を焼いてしまったのは、心配だったからだ。嫌な予感がしていた。無理やりにでも連れていかねば、きっと彼は警察には行かなかっただろう。だから、連れて行くだけ。後は警察が捜査してくれるから、任せればいい。頭ではそう思っているのに。
「……先生、嘘ついてる」
ぽつりと、誰もいない部屋に莉子の独り言が零れた。
それを真夏達に伝えるかどうかをずっと悩んでいた。何度も言おうと思って、だがその度に父の怒った顔が頭にちらついてできなかった。父に怒鳴られることはよくあるが、あんなに怒った顔を見たのは初めてだった。
だから、念のため真夏に電話番号を聞いていたのだが、結局それもかけられないままだ。
携帯を放り出し、クッションを抱えてごろりと転がる。
考えないようにしよう。そう思う反面、抑えきれない好奇心と探求心が疼くこともまた自覚せざるを得なかった。
■ □ ■ □ ■
数日、容疑者五人に対する張り込み捜査が続いた。だが特に大きな動きはなかった。田村は毎日定時に通勤、帰宅しているし、田辺の父も似たようなものだった。こちらは時に帰りが遅くなることはあるが、会社の外に出た気配はない。田辺の母は専業主婦で、たまにスーパーに行く程度だし、田辺麻友は学校。野村はずっと部屋に篭り切りで何をしているのかわからない。
しかし、張り込みを始めてから嫌がらせは起きていないようで、五人の中に犯人がいる可能性は高くなった。
「犯人は野村なんじゃないでしょうか」
「あー、やっぱ順当に考えたらそうだよなぁ」
真夏の独り言に近い呟きに、思いがけず日野が肯定の声を上げる。ちょうど、交代でその野村の張り込みに向かうところだった。といっても野村は張り込みを始めてからずっと部屋から出ていないのだが。
「野村はミリオタだ。そして部屋から出ない時間が長い。爆弾を作る知識も時間もある」
「僕もそう思って。最初は、嫌がらせをするなら同じ学校内にいる田辺麻友が一番やりやすいとも思ったんですが、彼女には爆弾を作って深夜にそれを投げ込みに行くのは無理そうですから」
「だよな。だとしたらバスで注意されたのが動機か……、リコチャンもあのセンセー空気読めないって言ってたし、恨まれてても気付かなそうだ」
「教え子だから庇ってる線もあります。捜査にあまり協力的ではありませんし」
真夏は内海の犯人を捕まえることに乗り気ではない態度に違和感を感じていた。だから、田村や田辺夫妻かもしれないと考えもした。もし犯人が田村なら、昔田村を苛めていたのが内海なのかもしれない。それなら今田村が家庭を築き幸せに暮らしていることにほっとしたのも頷けるし、自戒のために教師になったのなら自然だ。しかし仮にそうだとしても、高校時代のいざこざで今の生活を壊すようなことをするだろうか。そう考えると動機としては弱い気がした。
田辺夫妻だとしたら、彼らは娘が苛められているのではないかと考えていたようだから、学校や教師への恨みだと考えられる。しかしそれなら相手は担任や校長だろう。直接関わりのない内海に嫌がらせをするのはおかしい。それは田辺麻友本人にも言える。
結果、野村が一番怪しく思えてきた。内海は彼を「少し変わっている」と言っていたが、内海の生徒だった頃から、そういう目で見られることを嫌っていたとしたら。バスで注意されたとき、その頃からの恨みが爆発したとしたら。
部屋に篭って脅迫状を書いたり爆弾を作っているところを想像しそうになって、真夏は慌てて頭を振った。まだ決まったわけではない。先入観は捜査の妨害になる。
「ふむ」
突然矢代係長が声を挟んで、真夏ははっと我に返った。
「……張り込みは野村一人に絞ってもいいだろう。動きが掴めないのは彼だけだし」
言いながら矢代が自分の携帯を耳にあてる。他四人に張り込んでいる警察官を引き揚げさせるつもりなのだろう。どの道、長期間ずっとおなじ事件に何人も人員を割けるような余裕はない。妥当な判断だ。
しかし結局のところ、野村の張り込みに向かう筈だった真夏と日野の仕事には影響しない。矢代の電話の声を背中に聞きながら部屋を出ようとしたら、ちょうど今開けようとしていた扉が勝手に開いた。先に向こうから誰かが開けたのだ。
「あれ、内海さん。どうしたんですか」
そこに現れたのは内海本人で、真夏は驚いて声を上げた。あんなに捜査協力を渋っていた彼が自分から警察に来たということに驚いたのだった。
「いえ、こんなものが届いて。さすがに怖くなって……」
そう言いながらおずおずと内海が差しだした封筒を受け取る。封は既に鋏が入っており、中の文書を見て真夏と日野は息を飲んだ。
今夜お前を殺す
B5のコピー用紙に、たった七文字だけの言葉が印字されていた。