セラの決意 1



 落ち合う約束をしていた宿につくと、セラはライゼスとリュナに帰ったことだけを告げて一人部屋に籠った。二人が心配するのは想像できたのだが、一緒にいて取り繕える自信もなかった。そうすれば結局結果は同じだ。それに気を遣うよりは、今は一人になりたかった。彼らが何も言わなかったのは、察してくれているのだろう。そう思うと余計情けなくなった。
「……私は、いつからこんなに弱くなった……」
 ベッドの上で膝を抱え、呟く。レイオスにはあれほど盛大に啖呵を切ったくせに、今は胸がつかえて苦しかった。誰かの誰かに対する悪意が、全て自分に突き刺さってくるようだった。足元が消えうせたように酷くおぼつかない。寒くもないのに体が震えた。
「簡単だよ。キミが今まで何も恐れなかったのは、世界を知らなかっただけだ。籠の中にいたからだよ」
 信じられないほど近くで唐突に聞こえた囁きに、ぴくりとセラは肩を震わせた。だが突っ伏した頭を上げることはできなかった。
「籠の外は酷く汚いだろう? 誰も皆、自分の痛みしかわからない。だから他人は平気で傷つけるんだ」
 風がふわりと頬を撫でる。その冷たさを遮って、頬に触れる手が優しい温もりを伝える。
 視界の端で、レースカーテンが翻った。その向こうはもうすっかり闇色をしている。そこに焦点を合わせると、近くがぼやけた。そのぼやけた視界が甘い色を移しこむ。
「誰かを悪者にするのは酷く合理的だ。それがこの世界だよ。キミもそれを見てきただろう? ノルザの村人は娘たちの痛みを理解しなかった。フィアラは伯爵の痛みを理解しなかった。裏切りの騎士は忠誠を誓う者の痛みを理解しなかった。リルドシアの民はリルドシア王の痛みを理解しなかった。九人の王子たちは末姫の痛みを理解しなかった。他人を傷つけることでしか誰しも自分を守れない、ここはそんな虚ろなる世界だ」
 声は優しく囁き続ける。甘く、どこまでも甘く、誘うように。ひときわ大きくカーテンが翻ったのを最後に、視界は閉ざされた。曖昧だった感覚も戻る。曖昧な存在も確かになる。
「……クラスト」
 名を呼ぶと、まるで聖母のように優しく彼は微笑んだ。
「戦乱が明けてみれば、途端に人は平和に溺れる。癒えた傷の痛みなど簡単に忘れていくものさ。与えられているものを当たり前に感じて感謝など忘れ、どうでも良いことで傷つき、誰かを責めることでその傷を癒す。自らでは何もしようとしないくせに不平不満だけ並べたて、そしてそれは必ず他人の所為だ。どこまでも勝手で不条理で理不尽だよね。――ボクはそんな理不尽を終わらせたい。この世界を変えたいんだよ、セリエラ。だからボクとキミは解り合えるハズだよ? キミは全ての痛みを見ようとする。その小さい存在で、自分の信念の下にね。ボクは本当に、そんなキミを愛しく思うよ――」
 唇を甘い吐息が撫でる。頭が痺れる。麻痺した思考が、彼の言っていることを受け入れようとしているが、抵抗はできなかった。彼は何も間違ったことは言っていない。だが抱きしめられたその瞬間に、こんなものは温もりではないと心が叫んだ。それは、大事な人の温もりを、体が覚えていたからだった。
「……私を、支配するなッ!!」
 弾かれたように頭を上げて、渾身の力でセラはクラストを振り払った。だが薙いだ手は空を掻き、ふわりと少し離れた位置にクラストが降り立つ。
「でもキミの本当に愛しいところは、その愚かさだよ。それなのにキミは、最も身近な痛みに気付かない。籠の中では皆がキミを守ってくれるから、気付かないフリも簡単だよね。痛みは全部番犬が引き受ける。そしてキミが、彼を狂犬にしたんだ」
 取り戻した筈のぬくもりが、ふわりと剥がれた。電流でも走ったように体が痺れる。食いしばった歯は何の言葉も漏らすことを拒否した。動けないセラにクラストがそれ以上言葉を紡ぐ前に、激しい音がしてドアが開く。
「セラ!!」
 こちらの名を呼んだ幼馴染を見た瞬間、今しがたのクラストの言葉が脳裏によみがえる。それと共に、彼の甘い髪と瞳が、それまでの言葉が、次々にフラッシュバックして最後に赤く染まった。
『光よ! 我に集い、濁濁たるもの灼き払え!!』
 それをも引き裂く眩い光が、クラストの手を捉え彼が剣を取り落とす。反射的に、ライゼスはその剣に手を伸ばした。
「――――駄目だ!!」
 だがその手は剣に触れぬまま止まった。否、止められた。後ろから抱きついてきたセラが、伸ばしかけた手を止める。無防備になってライゼスは焦ったが、見上げたときにはもうクラストの姿は消えていた。ひとまずは安堵するが、背に感じるセラの体が酷く震えているのに再びライゼスは表情を険しくした。
「セラ――」
「……お願いだ」
 安否を問う前に、セラが震える声を落とす。
「――剣は、もう持たないで――」
 悲痛な声に、ライゼスは言葉を失くした。

 ■ □ ■ □ ■

 戯れに、剣を教えてと父にせがんだ。その日、父が酷く驚き、誉められたのを覚えている。
 それが嬉しくて、セラは剣に夢中になったのだった。
 そう、最初は誉めてもらいたいから、そんな子供の戯れに過ぎなかった。