さよなら 1



 それからたいして進展のないまま、数日が過ぎた。
 いつものように自分の受け持ちの授業を終えて部屋に帰ろうとしたライゼスは、だが中庭にセラの姿を見つけて足を止めた。
「セラ」
 呼ぶと、彼女はすぐにこちらに気付いて駆け寄ってきた。衛兵のようなこの屋敷の制服がなかなか様になっている。どこかの英雄の風格すら感じさせる姿に、だがそれとは対照的な人懐こい笑顔を乗せて、セラが声を上げる。
「授業終わったのか」
「ええ。セラは話していてもいいんですか」
「ああ、今は休憩だから。けどいい天気だったから、中にいるのも勿体ないと思って。他に暇な奴がいたら相手して貰おうと思って探してた」
 言ってから、セラははっとすると罰が悪そうに目を逸らした。
「あ、いや、ちゃんと目的は忘れてないよ。でもこんな機会もそうないからな」
 ぼそぼそと取り繕う彼女を見てライゼスは笑った。最初は苛立ちもしたが、確かに彼女にとってこんな機会はそうない。いや、そうないどころか、もうないと言ったほうが正しい。  ここでは彼女の剣の力が認められ、そして剣の相手をしてくれる者もいる。
 城では彼女から剣を取り上げる者しかいない。そして自分は剣の相手をしてやれない。
「……いいですよ。僕は剣の相手はしてあげられませんから」
 その思いを口に乗せると、セラは目つきを鋭くした。
「そんなつもりで言ったんじゃない。ラスは、いてくれるだけでいいんだ」
 そんなことを真顔で言われて、ライゼスは少し気恥ずかしくなったが、穏やかに微笑んだままセラを見つめ返した。剣が使えないことは大きなコンプレックスとなって、今もライゼスを苛んでいる。彼女がそれに気を遣ってくれることさえ、情けなくなって余計落ち込むこともある。だが今は純粋に彼女の優しさが嬉しかった。
「ありがとうございます」
 礼を述べると、セラは少し瞳を和ませた。だがすぐに話を元に戻す。
「――しかし、例の男。全然見掛けないな。そっちはどうだ」
「僕はセラよりも行動範囲が限られてますからね。本当にここにいるのでしょうか」
「私もそれは思う。……だが」
 これだけここに滞在していて会えない、情報もないのだったら引き上げも視野に入れるのだが、全くないというわけでもなかった。それらしき人を見かけたという話は聞く。とんでもなく腕が立つ傭兵がいると。それは短い金髪に青い瞳をした、酷く整った容姿の男だと。
 だが姿を現すことは稀であるそうだ。そういう契約なのだという。
「また帰りが遅れてしまいそうですね」
 半ば諦めたように、ライゼスが溜息を洩らす。
「城には連絡したのか?」
「まだしていません。しかしあまり難航するようなら、来週には書簡を出そうと思います」
「……詳細は誤魔化してくれ。父上に要らぬ心配をさせたくない。前の件もまだ片付いていないだろう」
「解っています」
 場の空気が、少し重くなる。
 セリエラ姫。そう呟いた男の声が、あの日から何度も頭の中で繰り返される。そしてそのたび酷く胸が騒いだ。この胸騒ぎさえなければ、ここまでこだわっていないと思う。この得体の知れない焦燥感を何と言えばいいのか解らないが、ライゼスは彼なりに感じ取ってくれているようだった。心の中で礼を述べると同時に、一刻も早くあの男を探し出したいという気持ちが大きくなる。ここの暮らしは心地よくもあるのだが、だからといってそれに甘んじていていい立場ではない。さすがにそれくらいの自覚はあった。
 そう思うと、ここで油を売っている場合でもない気がした。まだ残っている休憩時間の間、少し屋敷を探ってみようかと思い立ったそのとき。
「――歌?」
 ふと聞こえてきた旋律に、セラとライゼスの両方の気がそがれた。
 重くなった空気を溶かして流すように。焦燥感を温かく包み込んで落ち着けるように。
 全ての不安を、どこかへ隠してしまうような、優しい調べと、美しい声。よく聞けば、聞き覚えのある声のような気もする。二人は顔を見合わせたが、ふいにどちらからともなく、声の方に向かって歩き出していた。胸を打つような物悲しい旋律。詞は、大陸共通語ではない。その声がはっきりと聞こえてくるにつれて、声の主には見当がついた。

 ♪ I do not want to get a matter of certain
   For "is" or "is not" I define
   I hope, and hold out my hand to one slender woman
   To thy lip, to thy eyes.

 ようやく聞こえてくる場所をつきとめて、セラは開いている窓から中を覗いた。うっとりと聴きいっているレリアの隣で、ティルがヴァイオリンを奏でながら歌っていた。だが、歌は不意に止まった。レリアが不思議そうに目を開けて見上げるが、ティルはそちらを見ず、弓を降ろして、窓へと目を向けた。
「……覗き見はやめて下さいます?」
「済まない。でも驚いた。思わず聴き惚れたよ」
 不機嫌な声が投げられたが、セラは素直に讃辞を述べた。だが、やはり彼は不機嫌そうに目を逸らしただけだった。ティルがセラに対してそんな応対をするのは珍しい。余程聴かれたくなかったのだろう。だというのに。
「ライゼス先生やセリエスさんも聴いていきませんか? 先生の歌とても素敵です」
 レリアがそんなことを言い出し、ティルは「げっ」と言いかけてどうにか堪えた。
「まだレッスンの途中です。次はレリアが歌う番ですわ」
 取り繕った笑顔でティルが窘め、レリアが拗ねたように口を尖らす。だが彼女はすぐにそれをひっこめると、何か思いついたようにぽんと胸の前で手を打った。そして、ティル、セラ、ライゼスと順番に視線を移しながら口を開く。
「そうだ、じゃあ、今夜パパとレリアと、一緒にお食事しましょう。リュナちゃんも一緒に。で、そのとき先生に歌ってもらうの! パパにも聴かせてあげたい。ね、いいでしょ先生?」
 最後にもう一度ティルを見上げて、邪気のない瞳でいきいきとそう語り出す。とんでもない提案に、ティルはバイオリンを落としそうになった。