姫は誰のもの 4



「……ま。勝てるとは思ってなかったけどな」
 まだ痺れの残る右手を押さえ、喉につかえていた言葉を吐き出す。視界の端に、自分の刀が床に突き刺さるのが見えた。
「それでも、俺は退かない。……セラが欲しいなら、俺を殺せ」
 今のライゼスは明らかに正気ではない。それでもティルが声をかけるのは、セラのことにおいてのみは、今のライゼスの方がまともに話ができる気がしていたからだった。
「じゃなきゃ、俺はどんな手を使ってもお前からセラを奪う。例え傷つけることになっても」
「オレは」
 真っ直ぐに交差する視線の先で、ライゼスが動く。
「オレは――セラを傷つけない。その為なら何をも厭わない。必ず守る」
 切っ先を向けられて、だが、ティルは笑った。やはり見解は正しかった。
「どこまでも相容れないみたいだな、俺たちは」
 同じ想いを抱えているというのに、矛盾していると思う。それでも互いに譲れないから。
 ライゼスが走る。だがティルはもうそれを見ていなかった。ただ視界には、愛しい人を映す。そうして死ねるなら本望だった。その為に生き延びたのだとすら思えるほど満たされていた。
 だが、彼に至福の最期が訪れることはなかった。
「!」
 大きな縦揺れに、ライゼスの足が止まる。だが振動で体勢を崩したのはティルも同じだった。
「っ、城も崩れるのか!?」
 今度の振動は、地下の崩壊とは比べ物にならなかった。城自体が揺れている。立っていられないほどの揺れに、思わずティルは床に手をついた。顔を上げると、さすがのライゼスもバランスを保つので精一杯のようだ。だが、それより重要なことに思い当たって、慌てて視線を元に戻す。今最も優先するべきことは、気を失ったままのセラの安否だった。そしてその瞬間、激しい轟音と共に、瓦礫と化した天井の一部が、眠るセラめがけて降り注いだ。

『セラ!!』

 声が重なり、そして二人は同時に動いていた。
 決して相容れることのない想いも、全て彼女あってこそ――ただそこだけが、二人に共通する何よりも強い想いだった。
 ライゼスの足が、勢いよく地を蹴り地面を離れる。あり得ない跳躍力で、セラをめがける瓦礫の元へと接近し、 「……おおおお!」
 その勢いで以って、裂帛の気合と共に瓦礫を下から両断する。そこで身を捻り、瓦礫の破片と共に地面へと降り立ち、セラを振り返る。振動は依然続いていたが、先ほどよりは少し弱まり、立っていることが困難なほどではない。
「――つくづく、剣を持ったら化け物だな、お前」
 もう瓦礫が落ちてこないことを確認し、ティルもセラを庇っていた身を起こした。刀が手を離れていたし、身を挺することしかできなかった。しかし直撃は免れたにしても、降り注ぐ破片までは気を失っていては避けられない。それほど大きな瓦礫でなくとも、落下の加速がつけば十分な凶器である。幸い致命傷は免れたが、鈍い痛みに、ティルは頭を抑えた。だが眠るセラに目立った外傷は見あたらず、ほっと息を吐く。
 ライゼスもそれを確認して同様に安堵の息をつき――そして、再びティルへと視線を戻した。
「…………」
 ゆっくりと剣を構え直し、だがそこで躊躇するように動きを止める。
「どうした? 殺るならさっさとしろよ。崩れちまうぜ」
 挑発を受けて――無表情で、再びゆっくりとライゼスは剣を振り上げた。しかし結局、振り下ろされたそれは、ティルに届かなかった。
「……ん」
 まるでそれが時を止める魔法であったかのように。城が震える音に、ほんの微かにセラの呻き声が混じると、ライゼスの剣はぴたりと動きを止めた。
「!」
 恐らく最初で最後の好機であろうその瞬間に、咄嗟にティルは剣を持つライゼスの手に手刀を放った。信じられないほど呆気なく、その手から剣が離れて地面に落ち、それを追うようにライゼスの膝もがくりと落ちる。
 そして顔を上げた彼の目は、それまでとは全く違う、穏やかな普段のそれへと変わっていた。
「あれ? 僕は一体、何を……」
「うーん……あれ、ここどこだ……?」
 放心したような声をあげるライゼスの横で、体を起こしたセラもまた、似たような声を上げる。そんな二人に挟まれて。
 ティルは気抜けすると共に、とてつもない疲労を覚えていた。

 地震のような振動が続く城から、三人は脱出を図ろうとしていた。セラにしてもライゼスにしても、ここ数分ほどの記憶が混濁して頭がぼうっとしていたが、だからといってぼんやりしている場合ではないことはわかる。  だがライゼスは歩くのがやっとであるし、ティルにしても、もうその彼を背負って走るほどの余裕もなかった。二人よりはまだ余裕のあるセラがライゼスに肩を貸し、どうにか歩を進めている現状である。できれば早く進みたいが、肩から伝わる荒い呼吸が痛々しく、セラは走り出したい衝動を抑えていた。目を向ければ、色を失って蒼白なライゼスが見えて顔をしかめる。
「大丈夫か、ラス?」
「――ちょっと待って、セラちゃん。俺のことも心配して。俺、もう、疲れた」
 だが安否を気遣う声に応えたのは彼ではなく、その横を歩くティルだった。
 少し前まではライゼスを背負って歩くぐらいの余裕があった筈なのに、なぜかここ数分でよれよれになっている彼を疑問に思いつつ、セラが頷く。
「う、うん。大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃない。なんとかして」
 ティルの上げた情けない声を、だがライゼスの呆れた声がぴしゃりと切り裂く。
「ふざけてる場合じゃないでしょう。状況考えて下さい」
「ッこのクソボーヤ……、そもそも誰の所為で俺がこんだけボロボロになったと……!」
「それこそ喧嘩してる場合か! そんな元気があるならさっさと行くぞ!」
 一転してティルの声が険悪になり、慌ててセラは叫んだ。さすがに今ここで喧嘩を始められては困る。場が明るくなると言っている場合ではない。怒鳴りつけると、二人とも不服そうな顔をしたが、睨みを加えると、両者とも従順に首を縦に振った。それを見て、再び前へ向き直って歩みを進める。そのセラのやや後ろから、おずおずとライゼスは声を上げた。
「あの、さっきから思ってたんですが。できれば伯爵の生死は確認しておきたいんですけど」
 ライゼスの言葉を受け、セラも思案顔になる。
「そうだな……報告に必要だ」
「いや、このまま城が崩れたら間違いなく死ぬよ。動けないよーにしてきちゃったし」
 二人の会話に、ティルが思い出したように声を上げる。
「動けないように?」
「うん。大広間に串刺しにしてきた」
 さらりとティルがむごいことを言い、ライゼスは渋面になった。
「簡単に言いますね。貴方の母上の恋人だったんでしょう?」
「あ、そーなの? 深くは知らない。でもどーでもいいよ。それに母上も止めて欲しかったと思うよ。……たぶん」
 人事のように、ティルはあっさりと吐き捨てた。だが、それでひとつ、やるべきことを思いつく。正確には、言うべきこと。
 丁度その頃、三人は大広間の前に差し掛かっていた。
「先に脱出していて下さい。僕は、一応伯爵の生死を確認してから行きます」
「学習しない奴だな。私が従うと思うか?」
 肩を離したライゼスを睨んで、セラが険悪な声を上げる。急に声色が変わったからだろう、ティルが不思議そうにこちらを見るのに気付きつつも、不機嫌さを隠せなかった。しかしライゼスはというと怯まず、似たように不機嫌な声で言葉を返してくる。
「学習しないのはセラの方でしょう」
 ギスギスした空気が二人の間に張り詰めた。
「……あのー、喧嘩するくらいなら皆で行った方が早いと思います」
 所在がないティルが、おずおずと手を上げて提案するも、
「いつも喧嘩してる者に言われたくない」
「はいすみません」
 セラに横目で睨まれ――どう考えても八つ当たりのような気がしたが――反射的にティルは謝った。その前を、セラがスタスタと通り過ぎて大広間へと向かう。
「……なんで怒ってるの」
「知りません」
 ティルの疑問を切り捨てながら、ライゼスはふらつく体でセラを追った。腑に落ちない顔をしながらも、その後にティルが続く。扉を潜ってすぐ、セラの背中と床に突き立った剣が視界に入る。ティルが倒したときの格好のまま、伯爵は床に己の剣で縫いとめられていた。だが見てくれはまったく違っていた。顔には幾筋も皺が行き、眼球は窪み、ブロンドは白くなって抜け落ちている。それが正しい今の伯爵の姿なのだろう。辛うじて胸が上下していたが、目の焦点はもう合っていなかった。
「……老衰だな」
 ティルがライゼスに向かって肩を竦めて見せる。
「そうです、ね。傷自体は治せますが……」
 かがんで伯爵の状態を見ていたライゼスだったが、首を横に振って立ち上がった。傷だけなら癒せるが、ティルの言うとおり、老衰だった。傷を癒しても、もはや助からないだろう。
 その場を後にしようとするセラとライゼスと逆に、だがティルは一人伯爵に近づいた。
「……フィア……ラ……」
 老人の窪んだ目がティルを映すと、口はしわがれた声を紡いだ。セラとライゼスが立ち止まる。狂ったようにその名を呟く伯爵は、憐れで惨めだった。
 だが、醜くはないと、セラは思った。偽の姿で許されざる罪を犯していたときは醜いと思ったが、ありのままの姿で愛する者を呼ぶ姿は決して――醜くないと。
「だから、間違えんなっつーの。俺はフィアラじゃない」
 聞いていなさそうだったが、一応ティルは訂正した。そして、つまらなそうな声で続ける。
「一ついいこと教えてやるよ。フィアラは死んだ。若く美しかったぜ、まだ」
 それだけ言い終えると、ティルはさっさと踵を返した。
 立ち去る彼を、セラとライゼスも追う。広間には、愛する者の名を呼び続ける伯爵の声がぽつりぽつりと響いていたが、広間を後にする頃には止んでいた。
 城を出ると、外は雪だった。脱出後も、城はまだ崩れずに震えていたが、長居したところで仕方がない。ノルザの村で、村人達に事情を説明していると夜は明けていった。疲労していたので三人はそのまま眠り、そしてセラがその眠りから覚めた頃には、雪は止んでいた。城に出かけてみると、崩れてはいなかったが、古びてすっかり風化していた。