10.


 リュナを城門まで見送って、そのツインテールが見えなくなるまで手を振ると、セラは門に寄り掛かって肩で息をついた。少し歩いただけなのに疲労を感じる。そういえば寝てないだけでなく、碌に食事もしてないことに気が付いた。リュナには部屋に戻って休むように釘をさされた。だがその前に何か胃に入れておかねば倒れてしまいそうである。
 それはわかっているのだが、眠ることにも食べることにもまるで気が向かない。動き出すことすら気だるく門によりかかったまま冷えてきた夜風に身を晒していると、衛兵たちがチラチラとこちらを見てくる。
 それはそうだろう。この王城にて日々を送る者一人と手、自国の姫が物憂げに考えに耽るところなど見たことがないはずだ。苦笑してセラはその場を離れようとした。が、急に動いたためか、眩暈がした。折り悪く、踏み止まろうとした足がドレスを踏んだ。
「あ……」
 傍にいた衛兵達が動くよりも早く、その腕を取ってセラの体を支えたのは――
「ラ――」
 ス、と反射的に言いかけたが、違うことはすぐにわかる。それにはあまりにも支える腕は細くて、このまま倒れたら一緒に転んでしまいそうで。どうにかセラは態勢を立て直した。
「リズ」
「姫様……お顔の色が優れません。お部屋までお送りしますので、どうか少しでもお休み下さい」
「皆に同じことを言われる。そんなに悪いか、顔色」
 問いかけるセラに、リーゼアが深々と頷く。
「悪い上に酷い隈ですし、肌も荒れてて、髪もバサバサじゃないですか。姫様も一応女性なんですから少しは身だしなみを気にしないと、いくらお兄様やティルが何も言わないからって少し甘えすぎなんじゃ……」
 そこまで口にして、支えた腕が震えているのに気が付き、リーゼアは慌てて終わらない小言をかみ殺し、謝罪の言葉を引きずり出した。
「す、すみません姫様。失礼を」
「いいんだ。リズだけだ。そうやってはっきり言ってくれるの」
 よく見れば、セラは笑っていた。震えているのはそのせいかと安堵しかけて、セラの顔を見て、その考えをリーゼアは打ち消した。
「最近、ラスでさえ私を腫物のように扱う」
(……そんな顔されたら誰だってそうなる)
 ギリ、とリーゼアは唇を噛み締めた。だが、言葉は飲み込む。
 リーゼアは、セラのことが苦手だった。彼女はいつだって強くて、誰の助けも必要としなくて、差し伸べた手を何の悪気もなく叩き落として行ってしまう。だから苦手だった。リーゼアが知るセラは、こんな表情で項垂れるような、そんな人物ではなかったから。兄ですら迷うようなことを、リーゼアがどうしていいのかわかる筈もない。
 だというのに。
「なら、オレがはっきり言って差し上げましょうか?」
 場違いなほど明るい声が降って来て、リーゼアの顔がサッと青ざめる。そちらを振り仰ぐと、いつものニヤニヤ笑いを張り付けたヒューバートがこちらを覗き込んでいた。
「父上、姫様はお疲れにございます。今は何卒ご容赦を――」
「構わない」
 リーゼアが間に入ろうとするが、セラがそれを片手で制する。
「丁度いい。私もお前に言いたいことがある」
 リーゼアの、セラを支えていた手がビクリと震える。それほどセラの声には棘があった。そもそも、セラは騎士団に所属していたときの癖で、ヒューバートには普段敬語を使う。なのに今はそれもない。
「ティル殿下のこと?」
 顎をさすりながら、ヒューバートが白々しい声を上げる。セラは一瞬だけ横目でリーゼアを見た。恐らくは聞かれたくないのだと察して、だがリーゼアは目を逸らした。短く溜息をついてから、セラがヒューバートへと目を戻す。そして単刀直入に告げる。
「もうティルを利用するのはやめろ」
 鋭く睨まれても、ヒューバートはにやつくのをやめなかった。おどけたように両手を上げて、素っ頓狂な声を上げる。
「おぉ、怖」
「ふざけるのもやめてもらおうか」
 だが取り付く島のないセラの様子を見て、ヒューバートは肩を竦めると、挙動を正した。
「失礼しました、セリエラ王女。ですが、利用しているのはどちらです?」
 ぐっとセラが言葉に詰まる。対して、ヒューバートの表情はいつもの薄ら笑いではあったが目は全く笑っていない。滅多に聞かない彼の敬語は余計に冷たく聞こえる。
「姫が半端に殿下を構うから、殿下は利用されるんです。違いますか?」
「…………」
「貴女は行き場のなかった殿下に手を差し伸べたつもりかもしれないが、そのせいで彼はしがらみのある王家に戻らざるを得なくなった。情があるなら自由にしてやれば良かったんだ」
「わかって……いる。わかっているが、だからと言って」
「ならラスにやらせりゃ良かったのか? 本来はレゼクトラ家の役割だからな」
「どちらも断るッッ!!」
 空気が震えるような錯覚をヒューバートは感じていた。ビリ、と手先が痺れる。火を噴き零しそうなアイスグリーンの双眸を、ヒューバートはよく知っている。
「私を使えばよかった! 何故戦うしか能のない私を使わない!」
(惜しいな……)
 痺れる手をさすりながら、ヒューバートは胸中で零した。
「……冷静になれ、チビ姫。それでは本末転倒だ。全てはランドエバー王家のため……その血を継げるのは貴女だけなのですよ」
「……結局私の価値は……血統だけだということか……ッ」
 握り締めたセラの両の手が、ガクガクと震える。
「現時点では、そうですね」
「ッ」
 リーゼアの手を振り払って、セラが走り去る。
 その足音が遠くなっても、しばらくはヒューバートとリーゼア、どちらも動き出さなかった。ややあって、先に口を開いたのはヒューバートの方だった。
「……追いかけないの、リズたん」
「どうして父上のフォローをわたしがしなきゃならないんですか。それに……わたしじゃ駄目ですよ。姫様は」
 お兄様かティルでないと。そう口の中で呟いて、リーゼアはそっぽを向いた。
「あーあ。娘にまで邪険にされて、パパは辛いよ〜。息子にも嫌われるし〜」
「父上がそういう風に振る舞うからでしょう? それにわたし別に邪険にしてないじゃない」
 じっと娘に見上げられているに気が付いて、ヒューバートはそちらに目を向けた。
「……元老院の古参はよそ者の殿下を受け入れない。レゼクトラ家が汚れ仕事を負うならば、本当はお兄様かわたしがティルを殺さなきゃいけなかった。そうならないように父上や母上が院を牽制したけどエルベール家が動いてしまったから、元老院に直接利用価値を示すしかなくなった。あいつもそれをわかってたから従った」
「……なんで?」
「わたしだってレゼクトラ家ですから。それくらいは」
「ふーん……リズたんも大人になったねえ。恋でもしたの」
「してませんよ……リズは恋なんてしません。ずっと」
 胸を押さえて、リーゼアは答えた。本当は、あの日部屋に来たティルの様子が気になって調べたことだ。それでも述べたことに偽りはない。
「あんなに強かった姫様が、あんなに苦しむのだもの。わたしには無理ですよ」
 父に背を向けたのは、泣き顔を見られたくなかったからだったが、涙はどのみち出なかった。思い全てを断ち切ることはできない。それでも一番に思うのは、あんなセラは見たくないということだ。
(結局わたしが好きだったのは――)
 何にも屈しないセラと、その彼女を支える二人だったのだろう。
「リズたん……酒でも付き合おうか?」
「父上にしては乙女心がわかってないわね。どうせならスイーツ食べ放題がいいな」
 腕組みして振り向いたリーゼアが、仏頂面で我儘を言う。ヒューバートはいつになく優しく笑うと、「おっけー」と親指を立てた。