20.


「父上……どうして……」
 壊れた人形のように、何度も崩れ落ちながら、這いずるようにリルドシア王が近づいてくる。ティルもまた体を引きずるように後退ったが、セデルスの足に背が当たり、それ以上の後退を阻止される。
「セデルス……お前が……? だが、追放されたお前がどうやって……?」
「簡単さ。エドにつなぎを取ってもらった。あいつも変わらず阿保だな。何度でも私に騙されてくれる」
 詰ろうとして、声が詰まる。喉に引っかかる血を吐き捨てて、ティルはセデルスを見上げた。
「違う、あいつは……、疑うことができないだけだ……それの何が悪い!」
「悪くはないが、阿呆だと言っている。追放された私に先に会いにきたのはあいつの方だ。反省している、お前や父上に一目会って謝りたいと言ったら簡単に信じた。何も庇う必要はないだろう。被害を受けているのはお前だ」
 エラルドとセデルス、ティルは、兄弟の中でも歳の近さもあり、親しく過ごしてきた。元々セデルスが苦手だったティル、内心ではティルを憎んでいたセデルスと違い、エラルドは裏表なくセデルスもティルも兄弟として、家族として見ていた。追放されたセデルスを案じ、犯したことを悔やむ弟を見かねたとて、ティルにはそれを責める気になれなかった。
「確かにそうかもしれないが、俺から言わせればお前の方が百倍タチ悪いぜ……」
「その口調。父上の前だ、改めろ」
 セデルスが膝をつき、ティルの顎を掴む。だがティルは無表情のまま、渾身の力でそれを振り払った。嫌がって喜ばせるのも癪だが、もはや触れられるだけで怖気が走る。
 セデルスはそれ以上ティルに構わず、再び立ち上がるとゆっくりと這いずってくるリルドシア王に向かって声を掛けた。
「約束です、父上。私をリルドシア王家に戻して下さい」
「……ティルフィア、ティルフィアァ……」
 ティルに会わせる変わりに、追放の命を解くという約束だったのだろう。しかしリルドシア王はセデルスの声など聞こえていないかのように、ティルフィアと呼び続ける。その様子にセデルスは顔を歪め、舌打ちをしてティルの腕を掴み立ち上がらせた。そしてリルドシア王に向けて突き飛ばす。まるで肉食獣に餌を与えるかのように、残忍な笑みで。
 崩れ落ちる『娘』の体を抱きしめようとリルドシア王が手を伸ばす。抗うほどの力もなく、体を掴まれ、ティルは息を吐き出した。
 ――まるで、悪夢だ。
 いずれ父と向き合うことは決意していた。だが想定していたのはこんな再会ではない。
 そんなティルの表情を見て、セデルスはやや留飲を下げたようだった。
「どうした、ティア。愛する父上との再会だぞ。嬉しくないのか?」
 ティルの傍まで歩み寄ると、隣に膝をついて、セデルスが囁く。愉悦を湛えた瞳から目を逸らすと、ティルは疲れたように呟いた。
「もう……いいだろ……。父上にも王位にもお前にも興味なんかない……。もう放っておいてくれよ……」
「ランドエバーにいればそうなって当然だろうな」
「国なんてどうでもいいんだよ。俺は、ただ……」
 興味があるのも欲しいものも一つだけだ。
 遠くを見るような目つきをしたティルの表情が一瞬だけ緩んだのを、セデルスは見逃さなかった。
「……なるほど、わかった」
 そう言ってセデルスは立ち上がった。それに合わせてティルが視線を上げる。その先で、愉快そうに笑っていたセデルスは不意にその笑いを消した。
「ランドエバーを攻めましょう、父上」
「な……」
 一瞬何を言っているのか理解できず、ティルが絶句する。その間にセデルスは先を続ける。
「父上はずっと騙されていたのですよ、ランドエバーのアルフェス陛下に。彼が父上からティルフィアを奪い、死んだなどと偽った」
「何を言う、セデルスッ!!」
 ティルの怒号がそれを遮る。だがセデルスは言葉を止めなかった。
「ティルフィアがいたからリルドシアは栄えた。アルフェス陛下はそれが目障りだったのです。しかも、父上からティルフィアを奪ったばかりか、自分の子と結婚させ、その利益をランドエバーのものにしようとしているのです」
「なんと……いうことじゃ。許さぬぞ、あのランドエバーの若造め……」
 耳元を父の声が撫でて、ティルの顔色がサッと青ざめる。
「父上、セデルスの言うことは出鱈目です。アルフェス陛下は父上との約束通り、ずっと私を守り続けて下さった!!」
「可哀想にティルフィア……お前もすっかり騙されておるのじゃな……」
「違――ッ」
 声の限りに否定しようとすれば、血の塊がこみ上げた。腹の傷がじくりと痛み、目の前が霞む。
「あのときティルフィアを迎えにきた騎士――あれがアルフェス陛下の子、セリエラ王女だったのですよ。最初から全部仕組まれていた。あの騎士に誑かされたのです、父上は」
「セデルス、貴様ッ!!!!」
 その痛みも忘れて、ティルは走り出していた。咄嗟に刀を構えたセデルスの、その刀を持つ手をめがけて隠し持っていた髪留めの金具を突き立てる。
「……ッ!」
 彼の手が緩んだその一瞬の隙をついて刀を奪い返すと、ティルはそのまま彼に斬りかかった。セデルスは身を捩ってそれを避けたが、切っ先が額に触れ、鮮血が散る。にも拘わらず、セデルスの口元はニタリと弧を描いた。
「ははっ、いい顔だティルフィア! さあ戦です父上! リルドシアに帰って戦の準備を!」
「馬鹿を言うな! そんな事、レイオスが許すものか!!」
「結構! ならば私一人でもやるまでだ! ランドエバーの民草ひとりでも殺せればそれで心を痛めるのだろう? あの甘ったれた姫君は!」
「…………ッ」
「あはははははははは、ははははは!! その顔だ、その顔が見たかったぞティルフィアァァ!!!!」
 場違いなほど楽しそうに――子供のようにはしゃいだ笑い声を上げながら。
 セデルスが自らの剣を抜き放ち、片手でそれを振り上げる。
 鏡合わせのようにティルも刀を振りかざす。
 その仕草も、憎しみに溢れた瞳も、何もかも鏡だった。
 互いの死だけを願って繰り出された刃が、届けば互いに訪れるのは死だ。だが例え相打ってでも倒さねば、セデルスはランドエバーにとって害となる。
 そして――自分もそれは同じだという自覚もティルにはあった。過去は生きている限り付きまとうし、面倒を呼び込み続けるだろう。それどころか、自分自身いつ狂うかわからない。
(これが最善だろうが、ライゼス……)
 わかっているのに――

 引き留める。
 綺麗だと言った彼女の笑顔が。
 勝手に死んだら殺すと言った彼の目が。
 霞む意識の向こうで、おぼろげな記憶の向こうで、それだけが剥がれてくれない。

「…………ッ、死ねない。俺は……死ねない!!!」
 咄嗟にティルは刀を引き、セデルスの刀を受けた。
「臆したか!」
「セラに会えないことより怖ぇことなんて、ねーんだよッッ!!」
 受けた剣の勢いを殺しきれずに、ティルが地面に転がる。すかさずセデルスの剣が追う。だが、それが届く前に、二人の間を一筋の光が裂いた。絶体絶命の局面を切り抜けたにも係わらず、ティルが舌打ちする。
「アホセデルス……テメェのせいでまた借り作っちまったじゃねぇか……」
 溜息と共に、小さくティルは吐き捨てた。