5.


 ドサリと固い地面に投げ出された衝撃で、ティルは気を取り戻した。だがまだ全身に残る痺れに顔をしかめる。
(麻酔……か?)
 あまり効いた試しのないものではある。
「もう目が醒めるのか……効きにくいとは聞いていたが、常人なら二度と目覚めない量だぞ。正直少し冷や冷やした」
 聞こえてきた声は、ここ二年聞いていなかったとて忘れるようなものではない。
「……セディ……」
「ご名答だティア」
 まだ霞む視界の向こうで、一つ上の兄が笑った気配がした。リルドシア元第九王子セデルス――彼が身分剥奪の上国外追放されてからは一度も会っていない。髪をつかまれ、自由の利かない体を引きずり起される。
「見違えたじゃないか。お前が男だなんて、聞いただけでは信じられなかったぞ」
「……何の、話だか」
「今更ごまかせると思うなよ。この二年私は、お前に地獄を見せるためだけに生きてきた。忘れるな。お前の死を願ったものは数多くとも、一番それを望んだのは私だ」
 憎悪、怨嗟、嫉妬、羨望、あらゆる負の感情が籠った声は、かつても聞いた声だ。ティルとて今更誤魔化せるとは思っていない。すぐにはぐらかすのは諦めて、彼は舌打ちした。
「なら、なんで殺さなかったんだよ……」
「気を失ってる間に殺したのでは意味がない。レイオスからお前が死んだと聞かされたとき、私がどれだけ失望したかお前にわかるか?」
 わかるわけないだろ、とティルが吐き捨てるのを、セデルスはさも愉快そうに眺めた。
「この手でお前を殺したかった。それだけの思いであらゆる手段を使ってお前を捜し続けた。ようやく消息を掴んでみれば、どうだ? あの天下のランドエバーと縁談だと? 大した強運だ。そうやってお前はまた容易に全てを手にして行く」
 セデルスの言葉に、ティルは思わず笑っていた。その笑い声を聞いて、セデルスの表情が壮絶に歪む。掴んでいた髪を離すとティルの体は再び地面に転がり、セデルスはそれを踏みつけたが、ティルは笑うのをやめなかった。
「お前には、俺がそんなに色々持ってるように見えんのか……」
「私への皮肉か?」
「いや……純粋に可笑しかっただけだ……」
「ふん……馬鹿にできるのも今だけだ」
 馬鹿しているわけではない。だが実際この感情を正確にセデルスに伝えられる気はせず、ティルはただ地面を見ていた。もう既にセデルスになど興味はない。
(帰らなければ……)
 気取られぬように辺りに視線を走らせる。むき出しの地面の上にいるが、かろうじて屋内と言える場所にいる。穴だらけだが屋根もあり、風すら防げていないが壁もある。かなり傷んだ廃屋のようだった。扉は傾き、鍵など掛かりそうにない。とはいえ、麻酔はだいぶ切れつつあるが、走り出せるまでにはまだ少し時間が要る。おまけに刀も奪われたようだった。
 しかしセデルスの様子では、今すぐ殺そうという腹ではなさそうである。ならば機会はある。そのティルの推測を裏付けるように、セデルスは足をどけると、何かを拾ってこちらに投げつけた。
 バサリと体にかかったそれを見て、ティルは怪訝そうに声を上げた。
「ドレス……?」
「着ろ」
 短く命じられ、ティルが率直に問う。
「なんでだよ……」
「お前がティルフィアでなくては困るからだ」
「……?」
「どのみち選択の余地などない。早くしろ」
 顔を上げると目の前に刀の切っ先があり、ティルは舌打ちした。
(俺の刀……)
 奪い返そうと隙を窺うが、こちらを見下ろす黒い瞳は少しでも動けば迷わず刀を突きだしてきそうだった。
「お前を殺すことだけを生きがいとして鍛えてきた。ぬくぬく過ごしてただけのお前に今の私は倒せない」
「はいはい。ぬくぬくね……」
 致し方なく騎士服を脱ぎ捨てる。見ればドレスだけでなく、コルセットやパニエ、髪を結うためのリボンまである。
(ご丁寧なことで……)
 ほぼ三年ぶりだというのに、身に着けるのに手間も時間も要さない。忘れるにはまだ、女として生きた時間の方が遥かに長い。
「さっき見違えたと言ったが、そうしているとあまり変わらんな。相変わらず――」
 ドレスを身に着けたティルを見て、セデルスは刀を下ろすと一度言葉を切った。そして息を吸い、改めて口を開く。
「呆れるほど美しいな、お前は」
「…………」
 嫌いな言葉を投げかけられて、ティルは顔を歪めた。
「その顔ですら絵になるのだから恐ろしい。そのままスラムの飢えた獣に食わせてやっても愉しそうだ」
 全く愉しくない言葉を横に流しながら、ティルはさっと壁の隙間から外を窺った。今セデルスはスラムと言った。気を失っていた時間は、あくまで体感ではあるが、それほど長くはなかったと思う。ならばレアノルトのスラムである可能性が高い。
(捜しに来て……くれる、かな)
 くれるのだろう、彼女は。
 いつでも結わえた金髪を躍らせて、剣を掲げて、笑みを浮かべて。その剣で何でも守れると信じて疑わない彼女を、本当は守られるのではなく、守りたかった。ぎゅっと唇を噛み締めて、隙を待つ。
 セデルスの目が、奥に向いたその瞬間、ティルは一気に彼との距離を詰めた。早さでだけなら負けない自信がある。だが刀を奪い返そうと踏み込んだその瞬間に、激痛と共に崩れ落ちる。セデルスが刀の束で腹を突く方が早かった。
「……が……ッ」
「言っただろう? 昔の私とは違うと」
 膝が地面につく前に、セデルスが片手でティルの体を受け止める。
「そう、そのその顔が見たかった。だがもっとだ。そのままスラムに棄てられるのと、それとも私自身に貶められるのと、お前はどちらがよりいい顔をする?」
 セデルスが笑う。狂気を湛えたその笑みを、ティルはよく知っている。父。吸血鬼伯爵。クラスト。だが彼らをも凌ぐ歪んだ昏い笑み。
「嫌な狂い方すんじゃねーよ……顔面に吐瀉するぞ……」
 割と本気の軽口を叩き、腹を押さえる。治りきってない傷にまともに入った。セデルスの自信はハッタリではないだろう。万全でも勝てるかどうかわからない彼に抵抗する術もない。今のセデルスなら、本当にやりかねないかもしれない。だが――
(俺だって……同じだ……)
 感情は真逆かもしれないが、しようとしたことは同じだ。自分だけのものにしたくて蹂躙しようとしたに過ぎない。ならば愛だろうが憎しみだろうがその二つに差などない。
「どうしたティルフィア。つまらないな。もっと嫌がって絶望してくれないと私が満たされない」
 知るかよ、と呟こうとしたが、口から出たのは血の塊だけだった。
「汚すんじゃない。着替えさせたのはそんなことの為じゃないんだ。来い」
 手を掴まれ、引きずられるようにして、廃屋を進んでいく。朽ちかけた扉の前で、セデルスが口を開く。
「父上。約束通りティルフィアをお連れしました」
「……!?」
 力を失い、されるがままに従っていたティルが、そこで初めてセデルスの手を振り払う。だがセデルスはそれを許さなかった。扉を蹴って、ティルを中に放り込む。ボロボロのベッドの上に横たわっていた老人が、弾かれたように小柄な体を起こした。
「ティル、フィア……!」
 肉の塊のようにぶよぶよしていた体は今や骨と皮ばかりになり、眼窩は窪み、髪は抜け落ち、別人のようになってはいたが、呼ぶ声はまさしく父の――リルドシア王のそれであり。
 ティルは遠くなりそうな意識を必死に繋ぎとめていた。