15.


 愛とは何か。
 自分を棄てても相手のことだけを想えることか。それとも、他の何を棄ててもその相手を求めることか。
 解ったのは、答えなどどこにもないということだけだった。
 だから結局は、自分のできることをするしかない。
 
 ただただ、愛しき人のために。

 ■ □ ■ □ ■

「お会いできて光栄です。デムナント卿」
 深夜の来訪にも関わらず、相手は何の警戒もなく部屋の扉を開いた。もちろん、この状況を作り出すための根回しは周到に行ってきている。
 とはいえ、用心深い相手だ。彼が自邸に籠っている間は手も足も出しようがなかった。しかし今この時期――レアノルト祭により、自邸を離れざるを得ないこの時期は、好機だ。当然王侯貴族が宿泊するような宿はネズミ一匹通さない警備が敷かれている。だがそんなものは意味のないものではある。
「お待ちしておりましたよ。さあ中へ」
 部屋に招き入れられ、足を踏み出す。気取られぬよう気配を探ってみても何も引っかかりはしない。
「お一人とは、卿にしてはいささか不用心ではありませんか?」
「人を入れればそれだけ塞ぐ口が増えますからな。今なら一人で済むものを、むざむざ増やすこともありますまい」
「成程」
 卿の目が鋭く光るのを見てなお、顔色一つ変えず来訪者は短く答えた。その理論はひどくシンプルではあるが、彼が様々な悪事に加担していながら未だ王国に尻尾を掴まれない以上、その手法は有効と認めざるを得ない。何をしても証拠さえ残らねばいい。少なくとも今のこの国――
(否、アルフェス陛下の元では)
 思考を自らで覆す。
 全ての事象、タイミングを卿は考慮に入れている。こちらが消えたところで国にとって何の障害もないからこそ、自分と相手の駆け引きが成り立っている。それもまた相手の計画のうちだ。――こちらの計画のうちでも、ある。
「首尾はどうだね?」
 ここで交わされた会話は全て無かったことにされる。それでも相手は曖昧な言葉を選ぶ。
「上々です。ゆっくりと、でも確実にこの国は腐っていますよ。全ては貴方の意のままに」
「それは重畳。しかし貴方のご協力を頂けるとは思いませんでしたな」
「単に利害の一致です。こちらにとってもレゼクトラ卿は弊害以外の何物でもありませんので」
 淡々と答えながら、来訪者は手土産を差し出した。上物のワインだ。デムナントがそれを機嫌よく受け取りながらも手をつけず、部屋にあった酒をグラスに注ぐ。
「夜は長い。今後もぬかりはないよう、貴殿のご予定をしっかり聞かせて頂こうか」
「ええ、そのつもりで参りました故」
 勧められた椅子に座り、グラスを取る。乾杯を交わして互いにそれに口をつける。
 部屋の空気が変わったのは、その瞬間だった。
「……今宵卿には他にもどなたかとご予定が?」
「わざわざ塞ぐ口は増やさぬと言った筈。悪いが外に出てもらえますかな」
 来訪者にも覚えのないことではあった。卿の手はずならここで消される。卿の敵なら、それもまたドアを開けた瞬間に消される可能性がある。つまりどう転んでもドアの向こうの気配と相対するのは得策でないのだが、あっさりと来訪者は席を立った。
 ――目的は果たした。
 しかしどちらの場合でもなかったときも考えて手は打っておく。この状況、それを行うのには都合がいいとすら言えた。生き延びる可能性が増えたのか減ったのか、それは微妙なところではあったが、どうでも良いことではある。
 だから、扉を開けるのに迷いはない。
 鋭い殺気が扉の隙間を縫って、降りかかる。視界が周り、目の前の扉からグルンと天井へ移る。喉元につきつけられた刃を見てもなお、来訪者の表情は動かなかった。戸惑った声を零したのは襲撃者の方だ。
「何故君がここに……」
「これは思わぬ客ですな」
 声が被さって、襲撃者は武器を動かさぬままそちらに視線を移した。襲撃者に迷いがあるなら、どちらを先に殺るべきか。それくらいのことはわかっていて、デムナントが口を開く。
「目的は私の命でしょう。存じておりますが三十秒下さい。必ず考えを変えられるだけの条件を提示しますので取引を――」
 この状況にして饒舌に語りだした卿は、その途中で言葉ではなく血を口から溢れさせた。
 ごふ、とその塊を吐き出し、それが自らの血だとも気づく前に彼の体はまるで人形のように、床へと崩れ落ちる。
 静寂。
 刃を突き付けている相手から視線を感じて、襲撃者はようやく刀を引いた。
「何故ここへ?」
「それはこっちの台詞だよ。でもたぶん、目的は同じなんだろうな」
 場を支配する殺意だけは依然として鮮明なままだった。
 来訪者と襲撃者は、いまや襲撃者と来訪者となっていた。後に訪れた方が黙って立ち上がり、テーブルの上のグラスに手をかける。
「……毒。どっちにも入ってるみたいだけど?」
「この部屋の酒には全て入っていますよ。もちろんわたしが持ってきたものにも」
「君は飲まなかったのか」
「それでは怪しまれるでしょう。もちろん飲みましたけど、すぐに解毒剤をうちましたので」
 淡々と、こともなげに答える。しばしの沈黙ののち、言葉を継いだのは『彼女』の方だった。
「驚かないんですね?」
「君もね、レミィ・エルベール」
 名を呼ぶと、彼女は片手を持ち上げ、眼鏡を直した。おさげにしていた金髪は、今は解いて垂らしている。それだけで驚くほど印象が変わる。
「貴方がわたしを警戒してたのは、やはり馬車襲撃で立ち回りを間違えたでしょうか」
「それもあるけど、元老院自体最初から警戒してるんだよ」
「賢明ですね。たしかにわたしの暗殺リストには貴方も入っていますよ……殿下」
 こともなげにレミィは明かした。それを受けたティルにしても、とくに表情を動かすことはなかった。互いに互いの心を見せないままに、乾いた会話だけが続いてゆく。
「だろうね。で、どうする? 俺に毒は効かないわけだけど」
「なら、この手で殺すまで!」
 言うなり、レミィは両手を振った。その一瞬で彼女の手にはナイフがあり、一瞬の躊躇いもなくレミィはそれをティルへと放った。それは彼女にとって必殺の軌跡だった。だがそれにも関わらず、澄んだ音と共に刀はナイフは全て床へと落ちる。悔しさに唇を噛みながらも、再びレミィがナイフを手にする。僅かでも隙を探すために、噛み締めた唇を開く。
「……どうしてデムナント卿を?」
「同じだと思うけど、君と」
「どうして貴方がランドエバーのためにそこまでするのですか? そんな義理が貴方にあるのですか? 自らの手を汚してまで」
「もう汚れてるから、こんなことしかできないんだよ。でもそうでなくても、セラのためなら俺はなんでもする」
 ふと、彼は笑った。その笑みは筆舌に表せぬほど壮絶な美しさで、目を奪われぬようレミィはナイフを握りなおした。
「それなら姫様の為に死んで下さい。この国に貴方は必要ないのです」
 そう、とだけ答えると、ティルは構えていた刀を下ろした。
「じゃあちゃんと首を落としなよ。俺は死ににくいらしいから」
「姫様の為なら命すら要らないとでも?」
「要らないよ、そんなもの。彼女の為に惜しいものなんて俺には何もない」
 虚ろな笑顔のまま、ティルは先の答えを繰り返した。
「何もないんだ……俺にはセラしかない。だから求めて欲して、それだけならもう……」
 思えば父もそうだったのだ。最愛の妃を失くして壊れ、最後には偽りの娘に縋って狂った。
 人は簡単に変わるし狂う。
 そんな無常の中で変わらないものがあるとすれば、きっと――それは、彼女と彼の絆だけだろう。そう考えて、ふとティルは顔を上げてレミィを見た。
「一つ聞きたい。君が手を汚すのは、ボーヤの……ライゼスの為?」
 初めて、レミィの顔に感情が動く。
「……レゼクトラ家はランドエバーの影。エルベールはさらにその影。レゼクトラがやらねばエルベールがやるだけのこと。それだけのこと」
 つぅと、眼鏡の向こうに涙が流れる。
「想いなんて告げなければよかった。それだけのことで良かったのに、なのに……それだけじゃ駄目だった。でも愛する人の為だと思えば何だってできるのね。自分にこんな激情があるなんて思わなかった」
 レミィがナイフを構えなおす。だが、ティルは笑みを消すと、それを視線で制した。
「だったら君はもう殺すな。自分でやるよ……、代わりに手を汚したところで喜ぶような奴じゃないだろ、あいつは」
「あなたに、あなたにあの方の何がわかるって言うんですか!!」
「好きになるより、嫌いな方がよく見えるもんなんだよ。誰よりも一番嫌いだからこそ、わかる……、そして、だからこそ嫌いなんだ」
 レミィが目を見開いてティルを見上げた。その視線の先で、彼が自らの刀を首にあてがう。
「あいつが助けようとしたら止めてくれよ。もう借りは作りたくない」
 しかし、その手が動く前に漆黒の闇を一筋の光が裂いた。
 その光を見て、レミィは息を飲み――目を伏せた。
 刀が落ちる音が、やけに大きくその場に響いた。