10.


 寝苦しさにリーゼアはふと目を覚ました。それも道理で、汗で寝間着もシーツも濡れている。だるい体を起こすと、そのままになっている食器が目に入った。ベッドを降りる。ふらつくが歩けないほどではない。兄とて病み上がりなのに世話をかけてばかりなので、せめて片づけておこうと思ったのだ。
「……その前に、着替えようかな……」
 汗で濡れた寝間着を脱ぎ捨て、リーゼアはクローゼットを開けた。それと、唐突に部屋の扉が開いたのは同時だった。
「…………」
「…………」
 碧眼と、赤紫の瞳がバチリと交錯し――リーゼアは咄嗟に剣を取り、迷わず来訪者に斬りかかった。
「狼藉者!」
 反射的に納刀したままの刀でそれを受け、来訪者――ティルが呆れた声を上げる。
「全面的に俺が悪かった。でもとりあえず服着ようよ。目のやり場に困るだろ」
「なら少しは困った素振りを見せろ!」
 剣を引いて露わな体を庇いながら、リーゼアは直視してくるティルに向かって吐き捨てた。「ごめん」と大して悪びれてもいない謝罪の後一応はティルが視線を逸らし、リーゼアはその間に制服を引っ張り出すと急いでそれを身に着けた。
 こんなところを人に見られでもしたら、あらぬ嫌疑を掛けられかねない。それはリーゼアにとってもいささか迷惑な話ではある。
「淑女の部屋にいきなり立ち入るとは、貴様本当に王族か? だとしたら国民性を疑うぞ」
「体調不良って聞いてたから、起こしちゃ悪いと思って」
「知ってたならそもそも来るな! というか部屋以前に勝手に家に入って来るな!」
「だって誰もいなかったんだもん。ランドエバーで王家の次に権力あるって聞いてたけど、こんな不用心でいいの?」
「母も父も他人が家に入るのを嫌うんだ。大体ここは城の敷地内だし、総隊長や死神の家に押し入る命知らずなどこの国にいない。……貴様の他にはな」
 ジト目で付け足されて、ティルは再び詫びを口にした。
「本当に悪かったよ」
 今度は、さっきのようにとってつけたような謝罪ではなかったが――それはそれで調子が狂うのも確かだ。着替えを終えてクローゼットを閉めると、リーゼアは溜息をつきながら改めて彼の方を見た。
「で、何の用だ。姫様もお兄様も、もう城へ戻ったぞ」
「その二人に用ならここには来ないよ。……それより体大丈夫? わざわざ正装なんてしなくても良かったのに」
 セラやライゼスに用ではないというならば、彼がここに来た理由はリーゼアに会いにきたことになる。その上体を気遣われ、リーゼアは目を逸らした。益々調子が狂う。
「……でも、殿下の前で寝間着では失礼ですから」
「普段の態度に1ミリも敬意を感じられないのにそんなこと言われても」
 取り繕ったリーゼアの言葉を、ティルはいとも簡単に砕いてくる。正論も正論ではあるのだが、こういう言い方をされて黙っているような性格をリーゼアはしていない。
「うるさい! 伴侶でもない男にだらしない恰好を見せられるか! 淑女の扱いをわきまえろ!」
「淑女相手なら俺も気を遣うけどさぁ」
「殺すぞ!?」
 言うが早いかリーゼアは再び剣の束に手を伸ばしたが、激しい眩暈に阻まれる。よろよろとその場に膝をついたリーゼアを見て、ティルは屈むとその頬に手を当てた。そして、その思う以上の熱に顔をしかめる。
「リズちゃん……、大丈夫?」
「平気よ。気安く触らないで」
 心配そうなティルの声を、ピシャリとリーゼアが裂く。ティルは素直に手を引くと立ち上がった。
「ごめん、邪魔した」
「……待って!」
 そのまま踵を返したティルを、だがリーゼアは咄嗟に呼び止めていた。だがティルが首だけで振り返るのを見て、うなだれる。何がしたいのか自分でもわからなかったが、それ以上にわからないことが一つある。
「貴様、何かわたしに用があって来たんじゃないのか」
「お見舞い」
「嘘をつけ。貴様がそれだけの理由でわたしに会いに来るものか」
「なんだよそれ……別に用ってほどじゃないけどさ」
 ほらあるんじゃない、とリーゼアは呟いた。わざわざ距離を置いていた彼がその均衡を崩したからには、それだけの理由があると思っただけのことである。
「そういえばリズちゃん、いつ結婚するの?」
「はぁ?」
 肩透かしな内容に、リーゼアは思わず間の抜けた声を上げてしまった。それからベッドに座り、投げ遣りに答える。
「相手さえいればいつでも」
「有力貴族なんでしょ? 縁談くらいいくつもあるんじゃないの」
「立て続けにフられたの! もうほっといて!!」
 言っていて、ちょっと泣きそうになってしまい、リーゼアはベッドに上がるとシーツに潜った。それを見てティルはベッドの傍まで戻ると、目を細めて膨らむシーツを見下ろした。
「そんな見る目のない男は俺が半殺しにしてきてあげるから、ちょっとどこのどいつか教えてよ」
「手始めに鏡でも見とけ!」
 リーゼアが、シーツに顔を埋めたままで叫ぶと、ややあって返ってきたのは溜息だった。
「……わかった。逆だ。リズちゃんに男を見る目がないんだ」
「…………」
 のそりと起き上がったリーゼアは、愕然とした目を虚空に彷徨わせた。
「それだ……」
「自覚なかったの? お兄様みたいなやつでも選んどけよ」
「それは、なんかお兄様と比べちゃうから見劣りしちゃって無理なのよ。どっちかというと忘れたいから反対のタイプ見ちゃうのよね」
 よほど切羽詰まっているのか口調が素になっている。いよいよティルは呆れた。
「じゃあお兄様に選んでもらえば?」
「それはなんか嫌!」
「我儘」
 つい本音が出ると、彼女はギッっとこちらを睨みつけてきた。
「そんなこと言うなら、貴様は姫様に紹介された人と付き合えるんだろうな」
「いやそれは確かにヤだけどさ。リズちゃんは前に進むんだろ? だったら変な意地張らずにさっさと幸せな恋でもしてなよ」
「大きなお世話よ。ていうかほんとに何しにきたのよ?」
 ふと我に返って、リーゼアは呻いた。
「さあ……誰かと話したかっただけ、かな」
「……? 何かあったの?」
 怪訝そうに見つめてくる赤紫の瞳に、ティルは曖昧に笑った。
 本当のところは、リーゼアを通じて元老院のことを探りたかったのだが――
 ヒューバートはリーゼアのことは口にしなかった。妻や息子に無理だと思ったことを愛娘にやらせる気など毛頭ないだろう。むしろ、気負って空回りしている娘に幸せな結婚をさせたくてのことかもしれない。だがだからといってそれを嗤う気にはなれなかった。
「リズちゃんは家族に愛されてるね」
「何を急に。からかわないで」
 その言い様に、ティルはふっと苦笑した。
「セラちゃんもよくそう言うけど。そんなにふざけてるように見えるかな」
「茶化してるんじゃなければなんなのよ。それとも本当にデートだったわけ?」
 リーゼアの刺々しい視線が刺さる。何のことを言っているのか察してティルは苦笑も消した。手っ取り早く追及をかわすためのでまかせではあれど、茶化したかったわけではない。
「……なんでそんな顔するのよ。婚約者にまでなって、何が不満なの。茶化して楽しい?」
「楽しくはないけど、可笑しくはあるかな。リズちゃんならわかるでしょ」
「わからないわよ。一番じゃなくても必要とされてるならわたしはそれでいい。贅沢よ」
「あいつがいれば不要だよ。俺なんて」
「…………」
 咄嗟に何も言えず、リーゼアが唇を噛む。それはリーゼア自身が長年感じてきたことだ。だからティルも「リズちゃんならわかる」という言い方をしたのだろう。
「ランドエバーにしたって、リルドシアとの繋がりなんて別にいらないだろ。逆はともかく」
「それは……でも、他大陸への足掛かりはあっても困るものじゃない。ランドエバーが有する港からファラステルに渡ろうとすればリルドシアが要になるのは確かだわ。だから元老院も表立っては何も言ってこないじゃない」
「表立っては……ね」
 口の中だけで呟く。だがリーゼアの視線を感じて、ティルは表情を和ませた。
「いや、何でもない。結構賢いじゃん、リズちゃん」
「馬鹿にしてるの?」
「もう少し素直に取りなよね。……俺もう行くから。早く体治しなよ」
 まだ何か言いたげなリーゼアに背を向けて、ティルの姿が扉の向こうに消える。
「だから、何をしに来たんだ……」
 ボフリと枕に頭を落として、リーゼアは呟いた。