4.


 物音に目を覚ましたリーゼアは、その視界に現れた人物を見て慌ててベッドから跳ね起きた。
「姫様――」
「いい、そのままで。具合はどうだ?」
 そんな彼女を片手で制して、セラはベッドに歩み寄ると額に手を当てた。だがそうするまでもなく、赤い顔と荒い息をつく様子を見れば、良くないのは知れる。手に伝わる熱は先日までのライゼス以上だった。
「ラスのがうつったかな」
「僕のはただのキャパオーバーですからうつりませんよ。妃殿下じゃないですか?」
 再びベッドに横たわりながら、リーゼアは眉を寄せた。
「いえ、妃殿下の看病は母上と隊長がしていましたし……わたしはほとんどお会いしてないんですが」
「風邪が流行っているのかもしれないな。ラスも気を付けろよ」
「……セラは風邪を引いたことありませんものね」
 それを踏まえて言っていることを察し、ライゼスが肩をすくめる。何とかは風邪を引かないと言いたいところだが、さすがにリーゼアの手前やめておいた。
「とにかく、今何か作りますから少しでも食べて薬を――」
 ふと、妹の視線がこちらを向いていないのに気が付き、ライゼスが口を噤む。キョロキョロと誰かを探すように瞳を動かす仕草に、セラもすぐに思い当たった。
「ティルか? あいつは用事があると言ってでかけた」
「用事……? 友達がいるとも思えませんが?」
 さきほどのセラ宜しくリーゼアが不審そうに声を上げる。さらに失礼なことを付け加える彼女に、セラは苦笑した。
「デートだそうだ」
「はあぁ!?」
 セラの口調は揶揄を含んでいたが、ことさら大きな声をあげて、再度リーゼアはシーツを跳ねのけた。さらに枕元に立てかけてある剣をひっつかむ。
「あの変態色情魔め! 姫様の婚約者という立場にありながら、許せん!!」
「落ち着いて下さい、リズ! 貴方まで彼の言うことをいちいち間に受けないで下さい」
「ですが……!!」
「そこまで気になるのなら後で聞いておきますよ。ですからベッドに戻って」
「別に気になってなんていません!!」
 そんなつもりではなかったのだが、どうも最近失言が過ぎるようで――ライゼスが謝罪を口にする頃には、リーゼアも落ち着きを取り戻して剣を置いていた。ベッドに腰かけ直したリーゼアを見て、ライゼスはほっと息をつくと食事を作るために部屋を後にする。セラと二人残されてから、リーゼアはようやくセラがドレスを着ているのに気が付いた。
「珍しいですね、姫様がドレスを着るなんて」
「これから着る機会も増えるだろうし、慣れておいた方がいいと思ってな。鍛錬だと思って着てる」
 その言いように、リーゼアは噴き出した。ドレスと鍛錬を結びつける姫など世界でセラくらいのものだろう。
「不慣れなせいでティルに怪我させてしまったしな……」
 だがその名を聞けば不調も忘れ、リーゼアは眉を吊り上げセラに詰め寄った。
「姫様、やはり冗談だとしても捨て置けません。一度ガツンと言った方がいいですよ」
「……ティルのことか? 別に何をしようがあいつの勝手だ。本当だとしても何か言うつもりはないよ」
「どうしてですか! やっぱり姫様は――」
 別に恋愛感情など持ってはいないのではないかと。言いかけてリーゼアは口を閉ざした。セラが今まで見たこともないような、苦渋に満ちた顔をしていたからである。
「どうしても何も。私が選べないのに相手だけ縛るのは不公平だろう」
 セラの言は尤もではある。あるが――、とリーゼアは思う。セラがそう考えているのを知ってもティルは喜ばないだろう。もしそれがセラにとっての情愛の形だとすれば――
(不器用どころの話じゃないわ)
 人のことは言えないとわかってはいても、いや、わかっているからこそだろう。何とも言えないもどかしい気持ちにリーゼアは奥歯を噛んだ。
「じゃあ、いいんですか。あいつのことだから二人じゃ済まないかもしれませんよ」
「そうかもな。だがそれも私のいい悪いは関係ない」
「関係あるじゃないですか。仮にも婚約者の一人でしょう?」
「だからこそ、これ以上振り回したくないんだ」
「なんですかそれ。姫様らしくない……」
 これまで散々周囲を振り回してきたセラから殊勝な言葉が出て、リーゼアは思わず零していた。だがそのときに気が付いた。だから急にドレスなど着る気になったのだと。
 王女親衛隊であり、セラの世話役でありながら長年それを全うできなかったリーゼアにしてみれば、それは喜ぶべきことである。その一方で腑に落ちないのも確かだ。
「リズもらしくないぞ。ラスと同じくらい、口を開けば説教だったじゃないか」
「それでも今まで耳を貸さなかったから言ってるんです。心がけは良いと思いますよ。でも……」
 改めて、リーゼアはセラを見た。どうしようもないじゃじゃ馬で、人の話は聞かないわ、剣は振り回すわ、兄のことを抜きにしてもリーゼアにとってセラは手に負えない主君であったのは確かだ。だが真っすぐで折れないその強さに、惹かれていたことも否めない。だからこそ嫉妬もしたのだと思う。だが今のセラの瞳にはその強さがない。
「姫様、無理をなさっていませんか? 何かわたしでお力になれるなら仰って下さい。尤も、わたしではお兄様ほど姫様の支えになれはしないでしょうが……」
「リズ……そんなことはない。嬉しいよ、ありがとう……」
「姫様……、本当に、何があったのですか?」
 俯くセラの肩に手を置き、リーゼアはその顔を覗き込んだ。見慣れぬ憂い顔に眉を顰めると、セラはふと笑った。
「……大丈夫だ。すまない、体調の優れないときに心配をかけて」
「そんな、謝るのはわたしの方です。体調管理がなっていないせいで姫様にご迷惑をお掛けして……あ、そういえば、公務のお話はどうでした? せっかく姫様がドレスを着る気になったのです。できればお世話の為に同道したいのですが」
「いや、無理をするな。それに、今回ドレスの必要はないそうだ」
「……?」
 リーゼアが怪訝な顔をする。その疑問に答えたのはセラではなく、食事の乗ったトレイを持って現れたライゼスだった。
「今回の公務は剣術大会に参加することだそうですよ」
「剣術大会!?」
 リーゼアが素っ頓狂な声を上げる。サイドテーブルにトレイを置き、ライゼスは傍らの椅子に座った。
「ええ。例年レアノルトで行われる祭りでの、今年のメインイベントだそうです。本当は是非陛下にというお話だったのですが、多忙のためセラを代わりにと」
「だったら、父上が行くべきなんでは……」
「行くわけないじゃないですか……」
 思わず呟いたリーゼアに、ライゼスが半眼で返す。当然リーゼアにもそれはわかっているので、二人は揃って溜息を吐いた。
「申し訳ありません、姫様」
「いや、私は結構楽しみなんだが」
 すっかり憂いの抜けた、いつもの少年のような顔で答えるセラに、リーゼアはほっとした思いを溜息に隠した。
「……そうですよね。姫様の雄姿が見られず、リズは残念です」
「優勝の報せを持って帰るから、早く元気になれよ」
 はい、と返事をして微笑むと、リーゼアはまだ湯気の立つ食事に手を伸ばした。