1.



 ガタンと玄関の方で物音がして、ライゼスは書物から顔を上げた。懐中時計に目を走らせる。宵の口。こんな時間に館に入ってくるのは家族以外にないだろう。
 ランプを寄せて再び書物に目を落とすと、足音はまっすぐにこちらに向かってきた。本人も気が付かないうちに眉間に皺が寄る。癖になるぞとは日ごろからセラに言われていることだが、ライゼスに言わせればもう手遅れである。部屋の扉が開いたのは、それから幾何もしないうちだった。
「おう愚息。飯くれ」
 ぴく、とこめかみに青筋が立った。

 果たしてそれが、熱を出して静養中の息子に言う言葉なのか……と。
 言ったところで聞くような相手ではないので、ライゼスはキッチンに立っていた。「まだ〜」とダイニングから父は気楽な声を上げてくる。体調さえ戻っていれば、魔法の一発か二発ぶちかましていたかもしれない。しかし魔法の使いすぎで静養中の今、ようやく治りかけているところを無駄に消耗したくない。
(……それもこれもあの人の所為ですよね……)
 そもそも魔法を使いすぎたのは、ティルが死にかけたからだ。というか常人なら死んでいた。それくらいの深手を治癒し続けたせいでキャパオーバーした。そのために今、父に魔法の一発もけしかけることができない。だがどうせ仕掛けたところで鼻歌を歌いながらかわされるだけだ。ランドエバー騎士団総隊長の名は伊達ではない。
 ならば、体調が万全になったら諸悪の根源に二発か三発はお見舞いすることをライゼスは胸に誓った。既に先日それを行ったせいで少し熱が上がったことは置いておく。
 ともあれ、つまみ程度の適当に作ったものを父に持って行くと、机に突っ伏していた彼は顔を上げた。
「おお、サンキュ。腹減って死にそうだったんだよね〜」
「城下町で適当に食べてくれば良かったのに」
「ここんところ飲みすぎて、エレンに財布取られちったの」
 ライゼスは半眼で父を見下ろした。
 夫婦間の諍いで息子にまで迷惑をかけないで欲しいところである。家で食べろと言うならば、その食事は母が作って欲しいところだ。しかし、多忙なのを置いても母の料理の腕は壊滅的どころか殺人的だが。ついでに妹も。
 そもそも使用人を雇えばいいのに、父も母も他人を家に入れるのを嫌ってしない。息子の負担より個人のポリシーが優先らしい。
「誰か僕を労わってくれる人はいないものですかね」
「いい方法があるぜ。嫁さんもらえよ」
 とてもいいことを思いついたように、父――ヒューバートは口をモゴモゴさせながら満面の笑みでこちらを見上げた。
「……はぁ?」
 何から突っ込んでいいのかわからず、ライゼスは間の抜けた声を上げてしまった。
「お前が結婚すればレゼクトラ家の家事をお前が一手に引き受けなくてもいい」
「貴方が結婚してもそうならなかったようですが、それは」
「そこは気にするな。いやな、実はお前に是非にという縁談があって」
「……はぁ?」
 再びライゼスは怪訝な声を上げた。
 縁談も何も、ライゼスは一応セラ――この国ランドエバーの王女セリエラの婚約者ということになっている。それがどれほど現実感のない一人歩きの肩書きであったとしても、一応そうなってしまっているものはいる。
 ヒューバートもそのくらいはわかっているのだろう。口の中のものを飲み込むと、だがニヤッと笑った。
「まさかお前、ほんとにじゃじゃ馬姫と結婚する気なの?」
「それは……その。でも僕の意志に関わらずそういう流れになってしまっているというか……」
「そのお前の意志を聞いてんだけど」
 空の皿にフォークをコツコツと当てながら、ヒューバートが問う。ライゼスは困惑して視線を外した。
「ま、少なくとも絶対にチビ姫と結婚したいとオレに食ってかかるほどの情熱はないってことだろ」
「……父上はそういう情熱を持ってご結婚なさったんですか?」
「そこは気にするな」
 ライゼスはヒューバートに目を戻すと、嘆息した。少し自分が劣勢になるとそればかりだ。
「どうせチビ姫が我儘を言っているだけだ。お前に他にイイ人がいるなら破談になっても姫は文句言わないだろ」
「姫自身はそうかもしれませんが、仮にも婚約者がいる身で他の縁談を受けるのは倫理にもとるかと」
「受けろとは言ってないだろ。会うだけでもいい。他にも目を向けてみろってことだよ」
「同じことです」
「お前は頭が固いなぁ……オレがお前の歳には十人くらい結婚の話をした女がいたぞ」
「母上にお伝えしておきます」
「バッ……バカじゃねーの? お前オレのこと殺す気?」
 椅子がからずり落ちながら引きつった声を上げる父を後目に、ライゼスは踵を返した。
「他に用がないなら休ませて下さい」
「まぁ待てよ。ちょっとワケ有なんだ。会うだけ会ってやってくれない?」
 ふと父が真面目な声を上げたので、ライゼスは溜息を殺して足を止めた。
「エルベール家からのたっての頼みなんだ。向こうだってお前とチビ姫のことはわかってる。そこを押してどうにかという話だ」
「……おじい様はこの話を?」
「知ってるわけないだろ。レゼクトラ卿はお前と姫の縁談を一番通したがってるんだぜ。だから向こうもオレに話を持ち掛けたんだ。なんならエレンも知らないんじゃないか」
「エルベール家……」
 ライゼスは顎に手を当て、しばし考えに耽った。
 ランドエバーには元老院という貴族で構成された執政機関がある。その中でも一番の権力者がレゼクトラ家――ライゼスの祖父だ。それに次ぐくらいの力を持つのがエルベール家である。
 つまりエルベール家はレゼクトラ家がこれ以上力を持たぬように、ライゼスとセラの縁談を邪魔しようとしているということか。
(いや……しかしレゼクトラ家とエルベール家の関係はそんなに悪くない。あくまで客観的に見た場合……もしレゼクトラの血筋である僕が王家に入るなら、後に禍根を残すようなことをしない方が得策だ……)
 結局考えてもよくわからず、ライゼスは父を振り返った。
「多分今お前が考えてるよーなことをオレも考えた。よくわかんねーだろ? でも別にオレに不都合なこともないし、とりあえず会うだけならってことで返事しといた」
「父上に不都合がなくても、この話が陛下の耳に入れば……」
「アルフェスにはそもそも最初に話してるっつーの。お前のことはチビ姫の我儘で振り回しまくって本当に申し訳ない、こちらのことは気にせず好きにしていいってよ」
「っっっ貴方は陛下をなんだと思ってるんですか!」
 フルフルとライゼスが体を震わせる。
 その夜、レゼクトラ家のダイニングは、光魔法で半壊した。