11.



 流れ出る血が少しずつ意識を蝕んでいく。セラには大丈夫と言ったものの、思ったよりも傷が深い。止血はしたものの応急処置にすぎないため動いていてはあまり意味がない。しかし仕掛けを解くには動かないわけにもいかなかった。
(とはいえ……セラちゃんには無理だよな、これ……)
 床の数字を確認して、ティルは嘆息した。
 どうにか仕掛けは理解できたが、それを説明してもセラに理解できる気がしなかった。
「えっと……『二』……で向こうは『三』で……ということは罠が……」
「適当じゃダメなのか? 罠が来るって思ってれば避けれると思うんだ」
 間近で上がった声に、ティルは思考を中断されて息をついた。動くなと言ってもセラは聞かないし、かといって遺跡の仕掛けを説明しても理解できないだろう。半端に理解してうっかり罠を踏まれるのも困る。そうすると離れるなというしかないが、それは集中力が乱れる。
「ダメに決まってるじゃん。ちょっと黙ってて。あと近い。もうちょい離れて」
 ティルの苛立った声に、セラがむっとして眉根を寄せる。
「また怒ってる」
「だーかーらー、怒ってないって。……あんま近いとチューするよ」
 逆にティルが顔を近づけると、セラは思い切りのけぞった。そのままバランスを崩して隣の移動前の床に尻もちをつきそうになる。
「ちょっ……!」
 そこが罠かどうか現時点ではわからない。かといって考える暇もなく、咄嗟にセラの腕を掴んで倒れるのを阻止すれば、傷口から血が溢れた。が、セラは仏頂面でこちらの手を振り払ってくる。自業自得とはいえ踏んだり蹴ったりである。
「冗談だけどそんなに嫌がらなくても……」
 キスもできない婚約者を見て若干泣きたい気分になりつつ、セラが静かになったので再びティルは頭を遺跡の仕掛けへと向けた。仕組みさえ理解すればどうということのない仕掛けだったが、痛みと失血で意識を保つことが難しく、集中力が奪われる。だがそれよりもっと思考を奪うのはやはり隣の人物だ。だから、痛みがなければ正気が保てなかったかもしれない。そちらの方がよほど問題だから、この際怪我は有難かった。
 慎重に、だができるだけ迅速に、床へと触れていく。あと少しだ。
(……俺、何やってんのかな。昨日から……)
 セラの公務のフォローをするのも、頭を使って仕掛けを解くのも、自分のやることではない気がした。それでもやっているのは――
(……『理由』が欲しい……)
 得られないのもわかっている。思考を振り切って、ティルは仕掛けを解き続けた。そしてようやく罠を覗く、全ての床を通過する。
「これで仕掛けは解けたはず……」
 何か異変はないかと周囲を見回すと、床から立ち上る光が一か所に集まって、扉をかたどった。間をおかずして、そこから、ライゼスとリーゼアが飛び出して来る。それを目にしてティルはほっと息を吐きだした。
「セラ!」
「ラス、リズ! 来てくれたのか!」
「ええ。こちらも同じ仕掛けでした。でもセラ達の姿は見えていたのに、通れなかったんです。おそらく移動先の仕掛けも解けてないと駄目なのでしょう」
「姫様、怪我はありませんか!?」
 リーゼアに安否を気遣われ、セラがうなずく。
「私は。だけど私を庇ってティルが」
 セラが作動させてしまった罠に目を向ける。床に突き立った刃を見てリーゼアは青ざめた。やはり罠を作動させてしまっていた。
「いつもなら避けれたのに。ドレスを踏んだ」
「だから日頃から慣れておけと言っているんです。……回復しましょう」
 ライゼスも、もしそのまま罠にやられていたらと思うとぞっとせずに小言が口をついてしまう。ティルには礼代わりに回復のスペルを詠みかけるが、ティル自身がそれを止めた。
「あとでいい。それより脱出が先だ。出口がいつまでもつかわからないだろ」
 ティルが、ライゼス達が出てきた方とは逆を指さす。その先を視線で追うと、別の扉があった。その先にはブレイズベルク城とおぼしき回廊が見える。そのとき、グラリと遺跡が揺れた。
「確かに――古い遺跡ですし何が起こるかわかりません。ひとまずは脱出しましょう、セラ」
「わかった」
 ライゼスに手を引かれ、セラが出口に飛び込む。その後をリーゼアが追い、最後にティルが続いた。だが、扉に入る前にティルが足を止める。
「何やってんですか。早く――」
 急かすライゼスに、ティルがトントン、と扉を叩いて見せる。はっとして、ライゼスは扉に手を伸ばしたが、もう通り抜けることはできなかった。
「……うーん。最後に通過した床が出口の起動点になる仕組みで、自分側と移動先のどちらかの起動点に触れていないと通れない……とか?」
 ティルはいつもの軽い口調でライゼスの仮説を裏返した。つまり、ライゼス達が仕掛けを解いたのに移動できなかったのは、起動点となる最後の床から離れたためだったのだ。移動先でティルが起動点の床に達したために通過可能になったということになる。
 扉の光が弱まり、反対側の景色が霞み始めて、ライゼスは声を荒げた。
「こちらの起動点を探しますから、とにかくもう一度そちらを起動してください。繋がりが絶たれてしまいます」
「そっち、もう改装後のブレイズベルク城なんだろ。起動点が生きてる可能性は低い。そんくらいボーヤならわかってるだろ」
 一度断絶されれば、再び同じ場所に繋がる保証はない。最悪このまま二度と戻ってこられない可能性は充分にある。だがティルには全く危機感が見えず、ライゼスは舌打ちした。
「貴方、最初からわかってましたね……?」
 それを詰る前に、セラの拳が扉を打っていた。
「ふざけるな!! わかっていたならなぜ黙っていた!?」
「言ってどうなるんだよ。ていうか俺だって今この瞬間までボーヤと同じ仮説を立ててた。だけどそうじゃなかった場合、考えてる間に出口を失えば誰も脱出できなくなる。それまでに誰かを切る決断なんて、セラちゃんにはできないでしょ?」
 激高するセラに対し、ティルの口調は淡々としている。それが益々セラの苛立ちをかきたてた。
「そんなもの必要ない! 考えればきっと他の方法が……ッ」
「あったとしても、もう遅いよ……」
 揺れが来たわけでもないのに、ティルの体がぐらりと傾ぐ。ずっと前屈みで傷を押さえていたティルの、その手が離れると、白い騎士服は真紅に染まっていた。一目で致命的だとわかるほどの出血量だった。
「――大したことないって――」
 少しずつ光は消えてゆき、それと同時に光の向こうにいるティルの姿も霞んで行く。倒れ行く彼を見て、セラは掠れた声を零した。
「お前はまた……そうやって嘘ばかり……ッ」
 光が消える。
 リーゼアががくりとその場に膝を付き、セラが叩きつけた手が空を滑った。その手を、ライゼスが掴む。彼だけが、まだ光があった場所を見据えて立っていた。
「……ラス……?」
 セラの手を握りしめたまま、答える代わりに逆の手で複雑な印を切る。
『天に住まいし太陽の王より我が器にその血を借り受けん。――我が名において命ずる。我が前に道を拓け!!』
 瞬間、消えていた光が再び洪水のように溢れ出し、ライゼスの体を包み込む。
「あの馬鹿を連れ戻してきます。リズはセラを頼む!」
 セラもリーゼアも反応できないくらいの一瞬の出来事だった。ライゼスの早口の言葉はそれごと彼を連れ去ってしまい、今度こそ光が完全に消え去る。暗闇の中に残されて、リーゼアは身震いした。セラは、うなだれたまま顔を上げない。打ちひしがれているその様子を見て、リーゼアもまた泣き出してしまいたかった。だけど、頼むと言い残した兄の言葉がそれを止めた。
「……行きましょう、姫様。ここは灯りがないし、埃っぽい。多分ブレイズベルク城の封鎖された部分です。卿のところに戻らなくては。ここにいても仕方ありません」
 だが、セラは答えない。セラのこのような姿を、リーゼアは見たことがなかった。リーゼアの記憶の中で、セラはいつだって強かった。だけどそれはきっと、いつだってライゼスがいたからだ。
「……姫様! お兄様はアイツを――ティルを連れ戻すと言いました。リズはお兄様を信じます! だから姫様も信じて下さい。お兄様が姫様を悲しませるようなこと、するはずがありません!!」
 ようやく、セラがゆらりと顔を上げる。その目をのぞきこみ、リーゼアはかみしめるように告げた。
「お兄様もティルも絶対に帰ってきます」
 それは、半ば自分に言い聞かせたものでもあった。闇の中から、グルル――という唸り声が聞こえ、リーゼアは剣に手をかけ、立ち上がった。
「唸り声の噂まで、本当だったなんて」
 闇の中で、獣の目が光っている。この闇の中どこまで戦えるか――リーゼアの剣を握る手に汗が伝った。だが、隣で沸き起こった闘志にはっとする。この闇でも、正体不明の敵と相対しても、彼女にはまるで恐れ一つない。
「姫様は下がっていてください! 姫様に戦われては、王女親衛隊(プリンセスガード)の出番がありません!」
「そう言うな、リズ。せめてお前を守らせて欲しい」
「だから、それでは立場が逆なんですってば!」
 リーゼアにも、恐れはもうない。
 軽口を叩き合いながら、二人は同時に床を蹴った。